国民政府への参加
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翌年4月14日、帰国が許可され、馬占山とともにモスクワを出た。道中在外華僑の歓迎を受けつつ欧州を回り、6月5日に上海に到着し、上海市民より熱烈な歓迎を受けた。同月下旬、軍事委員会委員の推薦を受け、同時に中将に昇進したが、応対した蒋介石の反応は冷ややかなものであり、こうした肩書きも名ばかりのものであったとされる。 南京陥落後の1938年5月、二級上将に昇進、重慶政府軍事委員会軍事参謀官となる。8月、軍委会戦区軍風紀巡察団第三団主任委員となる。1940年1月、同部隊の廃止に伴い予備役となる。抗戦勝利後、故郷に帰還したところ、一家は離散し9人の子も極貧の中にいたため、国民政府に補償を求めた。国共内戦中、元部下だった東北剿匪総司令代理の周福成に、東北人民解放軍へと投降するよう説得を行う。 中華人民共和国成立後、周恩来により政協委員へと任命され、中央人民政府第三届委員、黒龍江省民革副主委、政協常委、省体育運動委員会主任(1954年12月)、省人民委員会参議室参事を歴任するが、文化大革命中に右派として糾弾され、政界を追われる。 1975年5月22日、病気のため、ハルビン市内の病院にて死去。 享年83。
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国民政府への参加
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国民政府では、1927年(民国16年)に軍事委員会委員に任命された。1928年(民国17年)、鄭州市長兼国民革命軍第2集団軍総指揮に任命される。後に、西北政治工作委員会委員長に任じられた。同年9月、河南省政府委員、国軍編遣委員会委員兼遣置部主任に異動する。馮玉祥と蒋介石との軋轢が深まると、巻き込まれることを嫌って視察の名目で自費で海外に出国。中原大戦中、アメリカで農業水利を視察。のち、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアにも赴いた。帰国後は馮玉祥配下から次第に離脱していき、1930年(民国19年)、鄂豫辺区綏靖督弁に任命されるが、肺の病気のため参謀長の王同生に職務を一任すると上海で療養する。復帰後の1931年(民国20年)9月、共産党に傾倒していた吉鴻昌に代わって第22路総指揮兼第30師師長に任じられ、蒋介石より大別山の剿共を命じられたが、同月の満州事変で東北を奪われたにもかかわらず剿共を続ける蒋介石に失望した李鳴鐘は、命令を拒絶して政界から引退し、北平、天津、開封、西安などで久大塩業公司、塘沽永利廠、中原煤鉱公司を起業した。1937年(民国26年)5月には、河南省政府委員の地位を罷免された。 盧溝橋事件勃発時は北平にいたが間もなく日本軍の手中に落ち、自宅で親日官憲の捜査を受ける。湯爾和より傀儡政府への参加を求められるがそれを拒絶し、商人に偽装して北平を脱出、天津・塘沽より船に乗り、煙台経由で河南省に帰郷。その後河南省政府委員に復帰し、省賑済委員会主任委員にも任ぜられた。1938年3月、開封で光明話劇団を組織する。1942年、中統特務より左派と見なされた河南大学教授嵆文甫(中国語版)が投獄された際には王幼喬・劉職学らと釈放嘆願を行った。1944年、黄河水利委員会高等顧問に招聘される。軍事参議院参議に異動する。 1948年(民国37年)2月、監察院監察委員に任命されている。国民党の敗色がいよいよ濃厚となった1949年(民国38年)には病床におり、孫連仲や劉茂恩から台湾への脱出を進められ航空機旅券ももらったが、国民党に嫌気がさしていた李鳴鐘は断った。6月29日、上海虹橋療養院で食道がんのため病没した。享年64。
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国民政府への参加
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北洋大学鉱冶系を1923年(民国12年)に卒業する。その後、同学の陳立夫とともにアメリカに留学、ピッツバーグ大学で修士学位を取得した。また、留学期間中に国際学生会会長に選出されている。 1926年(民国15年)に帰国して広州に戻ると、曽養甫は陳立夫の兄・陳果夫の推薦を受けて広州国民政府に任用された。北伐のために軍需工場設立の任にあたっている。9月、国民政府僑務委員会委員に就任し、以後、中国国民党広東省党部常務委員兼青年部長、国民革命軍総司令部後方総政治部主任、広東省政府建設庁庁長などの要職を歴任した。
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