ば‐せんざん【馬占山】
読み方:ばせんざん
[1885〜1950]中国の軍人。吉林省の人。字(あざな)は秀芳。馬賊出身。満州事変後、日本と妥協し満州国初代軍政部総長となったが、脱出し反満抗日戦を指導、敗れてソ連領に脱出。1933年上海に帰り国民政府軍事委員会委員。包頭(パオトウ)方面で日本軍と対戦し、抗日戦の英雄となった。1949年、解放軍に参加。マー=チャンシャン。
マー‐チャンシャン【馬占山】
読み方:まーちゃんしゃん
⇒ばせんざん(馬占山)
馬占山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/02 17:11 UTC 版)
馬 占山(ば せんざん、1885年11月30日〈光緒11年10月24日〉 - 1950年11月29日)は、中華民国・満洲国・中華人民共和国の馬賊、軍人、政治家。満洲国軍政部長、中国人民政治協商会議委員。字は秀芳。
注釈
- ^ 関東軍は、これに対し鉄道修理を名目に北満洲への進出を図ろうとした。川田(2010)p.170
- ^ のち(馬占山の満洲国離脱後)に黒竜江省長となる韓雲階も馬占山の説得工作にたずさわった。
- ^ 「党国政府と関係を脱離し、東北省区は完全に独立せり」という離脱の宣言文が出された。『1億人の昭和史1』(1975)p.147
- ^ 四巨頭会議(建国会議)のころ、満洲事変調査のためのリットン調査団が欧州を出発し、東アジアへ向かいつつあった(日本到着は2月29日)ので、既成事実をつくる必要があったため、巨頭会談開催が急がれた。また、そこでは会談が、あくまでもかれらの自由意志によるものであることが強調された。NHK『日本の選択7』(1995)pp.126-127
- ^ 満洲国建国にあたって大きな困難のうちの1つが馬占山の処遇であった。馬占山を殲滅するのか降伏させるのかについては、結局、1932年2月まで決着が持ち越されたことになる。NHK『日本の選択7』(1995)p.124
- ^ リットン調査団は馬占山との会見を望んだが、実現しなかった。
出典
- ^ 川田(2010)p.170
- ^ a b 川田(2010)pp.172-174
- ^ a b c d 『1億人の昭和史1』(1975)pp.147-153
- ^ a b NHK『日本の選択7』(1995)pp.126-127
- ^ 裏切りの原因は満洲国内で何の恩賞も無かったため憤慨したためだとされる
- ^ “総統府広報第67号(民国37年8月5日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月7日閲覧。
- ^ “総統府広報第93号(民国37年9月6日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月7日閲覧。
馬占山と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 馬占山のページへのリンク