国民政府への易幟、青島市長時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 02:07 UTC 版)
「沈鴻烈」の記事における「国民政府への易幟、青島市長時代」の解説
張作霖死後の1928年(民国17年)12月、張学良が国民政府に易幟すると、沈鴻烈もこれに賛意を示した。東北艦隊は東北海軍と改称され、引き続き沈がこれを率いている。翌年1月には東北政務委員会委員も兼任した。 1931年(民国20年)に満州事変が起きると、沈鴻烈は東北艦隊司令部を青島に移転させている。同年11月、青島市長を兼任し、北平政務委員会委員にも任ぜられた。翌年8月には軍事委員会北平分会委員、1933年(民国22年)6月には行政院駐北平政務整理委員会委員と歴任している。青島市長としての沈は内政面で功績が大きく、特に市街建設や学校振興は評価が高かった。 日中戦争勃発後、沈鴻烈は青島陸海軍総指揮部指揮に任ぜられた。当初は蒋介石の命令もあり、日本人居留民の帰国等への妨害は一切控えている。しかし、上陸してきた日本軍と交戦を開始するようになると、戦況が不利となったこともあり、1937年(民国26年)12月、沈は日本資本の紡績工場その他を焼き払って山東省南部へ撤退を開始した。 一方、山東省政府主席韓復榘は、沈鴻烈よりも更に抗戦意欲無く撤退したため、後に蒋介石により軍命違反で処断されている。これにより1938年(民国27年)1月、沈は韓の後任として山東省政府主席に任ぜられ、この他にも同省保安司令、魯蘇戦区副司令などを兼任して抗戦を継続している。日本軍相手に戦う一方で、沈は中国共産党をも敵視しており、国共合作が成立していたにもかかわらず八路軍への攻撃も繰り返した。
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