国民政府の領有と台北遷都(1945~1949年)
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「中台関係」の記事における「国民政府の領有と台北遷都(1945~1949年)」の解説
「国共内戦」も参照 ポツダム宣言が調印された1945年9月2日、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) は指令第1号において台湾の日本軍に対して中華民国国軍の蔣介石軍事委員長への投降を命じた。蔣介石は、すでにその1日前(9月1日)、「台湾行政長官公署」と「台湾警備総司令部」を設置し、陳儀陸軍大将を初代台湾行政長官兼台湾警備総司令官に任命していた。同年10月17日、国民政府の国民党軍(国民革命軍)と官吏あわせて1万人以上が米軍の全面的支援を受けて基隆港から上陸、台湾の領有を開始した。10月25日には、上海から到着したばかりの陳儀初代行政長官と安藤利吉台湾総督兼台湾軍司令官との間で降伏文書の調印が行われた(台湾光復)。この日は現在も「光復節」として台湾(中華民国)の休暇を伴わない記念日となっている。 台湾光復後まもなく、中国大陸では蔣介石率いる中国国民党と毛沢東率いる中国共産党との国共内戦が本格化し、台湾では著しい物資不足と激しいインフレーションが襲った。1946年3月には早くも、長官公署の無能・腐敗を糾弾する「人民自由防衛委員会」が発足している。そして、1947年2月28日の台湾住民と官憲の衝突をきっかけに台北市に戒厳令がしかれ、国民党軍や官憲による住民の弾圧・粛清が行われた(二・二八事件)。この事件により知識人を中心にわずか2週間余りの間に少なくとも約2万8千人が殺害され、今日に至る「本省人」と「外省人」の深い溝を作った。 米国の抗議を受け、蔣介石は陳儀を免職とし、台湾行政長官公署を廃止して台湾省政府を設置し、魏道明を初代省政府主席に任命した。1948年末には、蔣介石の腹心である陳誠を第2代省政府主席兼台湾警備総司令官に、長男である蔣経国を中国国民党台湾省委員会主任委員に任命した。1949年5月20日、台湾全土に戒厳令が布告された(この戒厳令は、蔣経国政権末期の1987年7月にようやく解除された)。 1949年4月23日、中華民国の首都南京が陥落すると、まもなく毛沢東率いる中国共産党が中国大陸をほぼ掌握し、10月1日、中華人民共和国の建国を宣言。国民党政権は12月8日、台北遷都を決定した。蔣介石は台湾退却後も「中華民国こそが中国の正統政権」と主張し、台湾を「大陸反攻」の拠点と位置づけたのに対し、中国大陸の中華人民共和国政府は「台湾解放」を掲げた。こうして、中華人民共和国と中華民国が、それぞれ中国大陸と台湾を支配統治しつつ、互いに国家としての存在を否定し軍事的に対峙する「両岸関係」の歴史が始まった。
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