台湾行政長官とは? わかりやすく解説

台湾行政長官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/09 19:34 UTC 版)

フレデリック・コイエット」の記事における「台湾行政長官」の解説

コイエットはオランダ東インド会社最後の台湾行政長官として知られている。1656年6月30日着任後、台湾から上がる収益は急拡大し、コイエットの評価高まったこの間、コイエットは鄭成功危険性引き続き訴え動向にはまだ注意が必要と繰り返し報告するが、やはりゼーランディア城防備強化却下された。この為、コイエットはバタヴィア許可なしに、城の強化行なった1660年になると、会社台湾危機認識し始めた1660年7月16日、ヤン・ファン・デル・ラーンを司令官とする12からなる救援艦隊バタヴィア出航し9月には台湾到着した。しかし、この艦隊台湾問題が無いようならば、マカオポルトガル軍攻撃するように命令されていた。防御戦に勝利して新たに得られるものは無いが、マカオ攻略すれば莫大な利益を得ることができる。この為当初よりファン・デル・ラーンは台湾危機軽視しており、コイエットと意見対立し1661年2月には4隻を残してバタヴィア戻ってしまった。ファン・デル・ラーンはコイエットは長官としては不適訴えたため、会社はヘルマン・クレンクを新長官に任命した1661年4月30日、ついに鄭成功戎克船300隻、兵士25000名の兵力ゼーランディア城近海来襲した。これに対すオランダ側の守備兵力は1140名に過ぎなかった。翌日から陸海激戦繰り広げられた。4隻しか残っていなかったオランダ船は、最大の船が爆沈残り3隻は脱出した陸上ではオランダ軍良く耐え、鄭成功5月末から積極的な攻撃中止して包囲戦移った6月24日ゼーランディア城から脱出した船がバタヴィア到着し戦闘開始されたことが報告された。7月5日、ヤコブ・カーウを司令官とする9隻の艦隊バタヴィアから出撃したが、カーウには戦闘経験がなかった。7月30日、「新長官」のクレンクが到着したが、戦闘中であることを知ると、台湾には上陸せず長崎逃げてしまった。8月12日、カーウ率い救援艦隊到着するが、悪天候上陸出来ず、ようやく9月8~10日にかけて補給品兵士揚陸させることに成功した9月16日オランダ艦隊鄭成功艦隊攻撃仕掛けるが失敗した鄭成功台湾攻撃知った清は救援申し出た。ここで、11月26日にカーウが清の救援軍輸送するという名目艦隊率いて脱出しそのままバタヴィア逃亡してしまった。これでオランダ軍士気低下したが、鄭成功は城の内部事情把握していなかった。しかし、脱走兵城内様子伝えたこともあり、鄭成功包囲戦から積極攻撃作戦変更1662年2月10日、9ヶ月間にわたる篭城の末にコイエットは降伏した。コイエットは必要な物資を与えられバタヴィアへと送り返された。 コイエットはフランソワ・カロン義理の兄であり、それまでカロン引き立てがあった。しかし、カロンはすでに帰国しておりその庇護はなかった。またスウェーデン人のコイエットを積極的にかばうオランダ人もいなかった。このため、一旦は「死刑」求刑を受け、3年幽閉後にバンダ諸島アイ島へ永久追放となったその後スウェーデン政府働きかけもあり、9年後の1674年恩赦釈放された。このときの条件は、一旦オランダに戻ったならば二度と出国してはならないというものだった。これは、義弟カロン1667年ライバルフランス東インド会社長官となっていたことが影響した思われる結局故国スウェーデンに戻ることは無くオランダ死去した

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台湾行政長官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:13 UTC 版)

フランソワ・カロン」の記事における「台湾行政長官」の解説

1644年には台湾行政長官に任命され7月5日バタヴィア出発8月10日にはゼーランディア城着任した到着後すぐに病気かかったため、しばらく前任者ル・メール次席としてカロン補佐した1646年まで同地での東インド会社最高位にあったこの間に、カロンは米、砂糖インディゴ生産改善硫黄の採掘中国海賊との取引緩和行った1644年には4隻、45年には7隻の貿易船日本送り出している。 カロン1641年から43年までのオランダ滞在時に25歳年下のコンスタンチヤ・バウデーンと知り合っていた。前妻死亡後カロン独身となっていたが、1644年9月代理人立ててハーグでコンスタンチヤとの結婚式行った1645年6月、コンスタンチヤは姉のスザンヌと共に台湾到着したスザンヌはそこでフレデリック・コイエット結婚している。 カロンはそこでコンスタンチヤに贅沢をさせたようで、それもあってバタヴィア呼び戻された。

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台湾行政長官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 00:33 UTC 版)

ピーテル・ノイツ」の記事における「台湾行政長官」の解説

失敗終わった訪日から戻ると、ノイツはタイオワン現在の安平区)のゼーランディア要塞(後の安平古堡)に居を構え第3代台湾行政長官に就任した。ノイツの初期目的一つは、17世紀初頭東アジア到着して以来オランダ逃してきた中国での貿易の道を開くことだった。この目標推進するために、ノイツは中国貿易交渉担当者である鄭芝龍人質取りオランダに貿易特権与えることを同意させるまで開放しなかった。なお、30年上後オランダ台湾統治終わらせることとなる鄭成功は、鄭芝龍息子である。 ノイツは長官時代台湾原住民女性ベッドに連れ込み通訳ベッドの下に潜ませてピロートーク通訳させていたとして悪評買った。ノイツはまた、会社規則禁じられていた私的貿易から利益得ていたともいわれている。この時期台湾人女性正式に結婚したとする資料もあるが 、最初の妻コーネリア法的にはまだ結婚していたので、その可能性は低いと思われる。 ノイツによる原住民扱いもまた不安材料であり、新港社(中国語版)(現在の台南市新市区居住した原住民)の人々彼による過酷な扱いを「日本人寛大なもてなし」と対比していた。ノイツは原住民低く評価しており、「善も悪も知らない無知な人々」と記している。 1629年麻豆渓事件発生しオランダ兵士60人が殺害されるが、ノイツはゼーランディア要塞に戻るため早めに切り上げていたため難を逃れた。この事件は後の1635年から36年にかけて行われた鎮撫作戦英語版)の口実となった。 ノイツが長官務めていた1629年スペイン台湾進出してきた。ノイツはこの事態深く憂慮しスペイン人淡水籠(現在の基隆)の拠点から追い出すべく、バタヴィア宛てて遠征求める緊急の手紙を出している。手紙の中でノイツは、スペイン人オランダ活動妨害する可能性があることや、島の北部占領することでオランダ得られる貿易上の利益強調した植民地当局はノイツの要求無視し1641年までスペイン人に対して何ら行動を起こさなかった。

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