国民政府への易幟
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同年5月、魏益三は靳雲鶚に従い武漢国民政府側に易幟。1927年3月、魏益三は唐生智率いる国民革命軍第4集団軍隷下の第30軍軍長となり、4月より北伐に参加、左翼軍に隷属。郝夢齢率いる第2師は第一線で交戦し遂平包囲戦に参加したが、主力は信陽、広水、応山(中国語版)一帯で後方の治安維持に努めた。7月、湖北北部の武勝関、広水、黄陂一帯に展開。 8月、部隊で内紛が起こり、一部の隷下部隊を率いて蔣介石の南京国民政府に帰順、国民革命軍第4集団軍(司令官:白崇禧)による再編を受け入れ、安徽省六安に駐屯。 寧漢戦争勃発後の1928年(民国17年)1月、湖南省の唐生智軍残党への総攻撃が開始されると、李宗仁率いる西征軍西路に属し、魯滌平の第2軍、李燊の第43軍とともに、津市、澧県、安郷県などで唐生智軍の第35軍(長:何鍵)、第18軍(長:葉琪(中国語版))と交戦。2月25日、隷下第1師~第3師が第103師、第104師、第105師に、6月12日、騎兵旅が教導師(長:劉鳳池)に再編。3月、唐生智軍は降伏した。元の第30軍は彭振国が代理軍長を務めていたが、接収し軍長に就任。第32軍軍長に任命されている。同年5月、軍事委員会委員にも任ぜられた。同年11月24日、第30軍は蘇蔭森の部隊と合併縮小して第4集団軍第11師となり師長。翌1929年(民国18年)1月20日、中央番号の順序に従い第54師に改称されると、王沢民と代わって第4集団軍総司令部総参議に任ぜられた。 1930年(民国19年)3月、軍事参議院参議となる。第8軍軍長兼第2方面軍副総司令、第2路代総指揮、軍事委員会北平分会委員、廬山軍官訓練団(中国語版)教官、武昌行営陸軍整理処研究委員会主任委員を歴任。1935年(民国24年)4月、陸軍中将。1936年10月、欧米に軍事視察に赴く。 1937年、中央傷兵管理処処長。1938年(民国27年)3月、軍事参議院諮議となる。1944年(民国33年)(1940年5月とも)、軍政部栄誉軍人総管理処処長に任ぜられた。のち、軍政部特別党部執行委員兼任。1945年5月、軍政部中将参議。このほか、第11戦区(中国語版)(長官:孫連仲)長官部顧問も務めた。 1946年8月に退役し、北平に赴く。1947年より東北保安司令長官部(中国語版)(長官:杜聿明)顧問、1948年初より国防部部員、11月より国防部栄誉軍人総管理処処長などを歴任している。 国共内戦末期に、魏益三は雲南省で何らかの職務に就いていた模様である。しかし1949年(民国38年)12月、雲南省政府主席盧漢が起義(反国民党蜂起)を決行した際に、魏益三は盧漢に捕縛されてしまった。その後釈放され、中華人民共和国で北京市人民委員会専員などを歴任した。1964年、死去。享年81。
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