国民政府への易幟とは? わかりやすく解説

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国民政府への易幟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/17 06:34 UTC 版)

魏益三」の記事における「国民政府への易幟」の解説

同年5月魏益三靳雲鶚従い武漢国民政府側に易幟1927年3月魏益三唐生智率い国民革命軍第4集団軍隷下の第30軍長となり、4月より北伐参加左翼軍に隷属。郝夢齢率いる第2師は第一線交戦し遂平包囲戦参加したが、主力信陽広水、応山(中国語版一帯後方の治安維持努めた7月湖北北部武勝関、広水黄陂一帯に展開。 8月部隊内紛起こり一部隷下部隊率いて蔣介石南京国民政府帰順国民革命軍第4集団軍司令官白崇禧)による再編受け入れ安徽省六安駐屯寧漢戦争勃発後の1928年民国17年1月湖南省唐生智残党への総攻撃開始されると、李宗仁率い西征軍西路属し魯滌平第2軍李燊の第43とともに津市澧県安郷県などで唐生智軍の第35軍(長:何鍵)、第18軍(長:琪(中国語版))と交戦2月25日隷下第1師~第3師が第103師、第104師、第105師に、6月12日騎兵旅が教導師(長:劉鳳池)に再編3月唐生智軍は降伏した。元の第30軍は彭振国が代理軍長務めていたが、接収し軍長就任。第32軍長任命されている。同年5月軍事委員委員にも任ぜられた。同年11月24日、第30軍は部隊合併縮小して第4集団軍11師となり師長。翌1929年民国18年1月20日中央番号順序従い54師に改称されると、王沢民と代わって第4集団軍総司令部参議に任ぜられた。 1930年民国19年3月軍事参議院参議となる。第8軍軍長第2方面軍総司令、第2路代総指揮軍事委員北平分会委員廬山軍官訓練団(中国語版教官武昌行営陸軍整理研究委員会主任委員歴任1935年民国24年4月陸軍中将1936年10月欧米軍事視察赴く1937年中央傷兵管理処処長。1938年民国27年3月軍事参議院諮議となる。1944年民国33年)(1940年5月とも)、軍政部栄軍人総管処処長に任ぜられた。のち、軍政部特別党部執行委員兼任1945年5月軍政中将参議。このほか、第11戦区(中国語版)(長官孫連仲長官顧問務めた1946年8月退役し北平赴く1947年より東北保安司令長官部(中国語版)(長官杜聿明顧問1948年初より国防部部員11月より国防部栄誉軍人総管処処長などを歴任している。 国共内戦末期に、魏益三雲南省何らかの職務に就いていた模様である。しかし1949年民国38年12月雲南省政府主席盧漢が起義(反国民党蜂起)を決行した際に、魏益三盧漢捕縛されてしまった。その後釈放され中華人民共和国北京市人民委員会専員などを歴任した1964年死去享年81

※この「国民政府への易幟」の解説は、「魏益三」の解説の一部です。
「国民政府への易幟」を含む「魏益三」の記事については、「魏益三」の概要を参照ください。

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