国民政府の宋哲元対策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 14:24 UTC 版)
「冀察政務委員会」の記事における「国民政府の宋哲元対策」の解説
国民党中央部並びに政府各部から影響力のある人物が視察と称して頻繁に中国北部に派遣された。その中の馮玉祥・鹿鍾麟・石敬亭らの目的は宋哲元と韓復榘両名に中央の意思を伝え、冀察政権が中央に全く服従することを誓約させることであった。宋哲元と韓復榘両名はかつて馮玉祥の部下であり、その当時は鹿鍾麟と石敬亭両名も馮玉祥の部下であり寝食を共にした経験を持つ上に誰もが山東・河北の出身であった。 同時に世論を中国北部の中央化に向けるため鉄道建設中止、炭坑譲渡不許可といった中央の権限行使が行われたり、税警団の山東配備のように中央軍が形を変えて地方に駐屯することで拠点を獲得するということが行われた。 冀察政府の実力の背景は国民革命軍第二十九軍であったが、これは中央軍ではなく宋が軍長であり、梅津・何応欽協定によって国民政府の中央軍と党部が河北から退去させられた後は国民政府が多数の中堅将校を二十九軍に入り込ませ、彼等は二十九軍上層部が抗日から親日に態度を変更して保身を図ることとは対照的に、もともと抗日意識が高かったその兵士に抗日の気運を徹底させる工作を行っていた。
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