七君子事件と日中戦争
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1931年(民国20年)、満州事変(九・一八事変)が勃発すると、王造時は抗日救国運動に参加し、民憲改進会という団体を組織したり、雑誌『主張與批評』半月刊・『自由言論』半月刊などを刊行したりした。1933年(民国22年)、宋慶齢・蔡元培・楊杏仏らと中国民権保障同盟を結成した。1936年(民国25年)11月22日、王は沈鈞儒・章乃器・鄒韜奮・李公樸・沙千里・史良とともに、国民政府当局により蘇州高等法院看守所に収監されてしまう(「七君子事件」)。その後、世論の激しい反発もあって、翌年7月31日に王らは釈放された。 日中戦争(抗日戦争)勃発後の1938年(民国27年)、王造時は江西省政府主席熊式輝の招請に応じ、江西地方政治講習院教務主任兼教授に任ぜられた。同年5月、吉安で雑誌『前方日報』を創刊して社長に就任、6月には国民参政会参政員に任命されている(以後、第2期・第4期で再任)。翌年3月、省会(省都)南昌が日本軍により陥落させられると、王は故郷の吉安で抗日の言論活動を継続した。このとき、周恩来と秘密裏に対面している。また、国民党からも入党の誘いがあったが、王はこれについては拒否している。
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