ナチス・ドイツとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 14:45 UTC 版)
「リチャード・シーマン」の記事における「ナチス・ドイツとの関係」の解説
シーマンは、ナチス・ドイツとイギリスの間の対立が激化するという1930年代後半の政治情勢の中、「ナチスのチーム」として知られたメルセデスチームで走った「イギリス人」という側面から語られることの多い人物である。 シーマン本人は政治的な信条というものは持っていなかったと考えられている。ナチス・ドイツとイギリスの対立により、イギリス人の自分がドイツの会社であるダイムラー・ベンツで働くことが難しくなってきているという状況には憤りを見せたものの、政治情勢そのものについては特に批判などをしていない。レースと政治を分けた考えをしていたようであり、ドイツ経済を立て直したことなど、シーマンの観点からヒトラーやナチスの功績と感じたことを、率直に賞賛する内容の手紙をイギリスの知人に送ったりもしている。ドイツの自動車レースを管轄していた国家社会主義自動車軍団(NSKK)から求められれば、ドイツを代表するチームのドライバーとしてナチス式敬礼もしており、1938年ドイツグランプリで優勝した際は、NSKKのヒューンラインに促されて遠慮がちなナチス式敬礼を行っている。 シーマンはその短い人生を自己中心的、野心的に送り、それらはレースのためという素朴な動機から発し、トラウマなどとも無縁だった。メルセデスチーム、そしてナチス・ドイツとの間で、「悪魔の契約」を結んだとして非難されることもあるが、それらは政治情勢にあまり関心がないことによるものだったようである。 1939年初めには政治状況の悪化を憂慮してイギリスに帰ることも考えるが、イギリスの知人たちからはむしろドイツとの付き合いは今の情勢では貴重だから残ったほうがよいと説得されて、思いとどまっている。実際問題として、当時のナチス・ドイツ政府は資産を国外に持ち出すことを禁止していたため、この時に既に母リリアンと絶縁していて、ドライバーとしての収入しか持たないシーマンは生活を維持するためにもドイツを離れるわけにはいかなかった。 1939年6月30日にロンドンでシーマンの葬儀が行われた際は、ヒトラーの名で巨大な花環(リース)が贈られた。
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