ナチスドイツによる強制辞退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 17:49 UTC 版)
「ノーベル賞を巡る論争」の記事における「ナチスドイツによる強制辞退」の解説
1936年、ノーベル財団は、アドルフ・ヒトラーとナチズムに公然と反対したドイツの作家、カール・フォン・オシエツキーに対し、その前年に受賞が決定していたが彼が強制収容所に送られていたため授与できなかったノーベル平和賞を改めて授与した。これに対しヒトラーは腹を立て、1937年1月31日、ドイツ国民がノーベル賞を受賞することを禁じる命令を出した。オシエツキーに平和賞を授与すること自体が論争とされていた。ファシズムにはイタリア、スペイン、ドイツ以外に支持者はほとんどいなかったが、ファシズムに共感しなかった人々も、ドイツを(意図的に)怒らせるのは間違っていると感じていた。 ヒトラーの命令に基づき、3人のドイツ人、ゲルハルト・ドーマク(1939年ノーベル生理学・医学賞)、リヒャルト・クーン(1938年ノーベル化学賞)、アドルフ・ブーテナント(1939年ノーベル化学賞)が受賞を辞退した。彼らは第二次世界大戦後に賞状とメダルを受け取ったが、賞金は受け取っていなかった 。 第二次世界大戦の開戦から1ヶ月半後の1939年10月19日、カロリンスカ研究所のノーベル委員会が開かれ、1939年の生理学・医学賞について話し合った。大多数がドーマクを支持し、誰かがベルリンに旅行したときにこのニュースを漏らした。ベルリンの文化省は、ドイツ人に対するノーベル賞の授与は「完全に望ましくない」(durchaus unerwünscht)との電報を送った。その電報を受け取ったにもかかわらず、1939年10月26日に大多数がドーマクに投票した。ドーマクは、受賞の決定を知った後、ヒトラーの命令が平和賞にしか適用されないことを期待して、ベルリンの教育省に受賞の許可を求めた。1週間以上経っても教育省からの返事が返ってこないので、ドーマクはこれ以上応答せずに待つことは無意味だ感じていた。1939年11月3日、ドーマクはカロリンスカ研究所に受賞への感謝の手紙を書き、賞を受け取る前に政府の承認を待たなければならないと付け加えた。 ドーマクはその後、その手紙の写しをベルリンの外務省に送るよう命令され、1939年11月17日にゲシュタポによって逮捕された。一週間後に釈放されたが、再び逮捕された。1939年11月28日、ドーマクは文化省に強制されて、受賞を辞退する旨がすでに書かれたカロリンスカ研究所宛の手紙に署名した。ドーマクからの2通目の手紙が到着する前に、カロリンスカ研究所はメダルと賞状を準備していたので、第二次大戦後の1947年のノーベルフェスティバルで、彼にそれらを授与することができた。ノーベル賞の受賞を辞退したのはドーマクが初めてだった。彼の受賞辞退を受けて、受賞者が受賞を辞退したり、翌年の10月1日までに賞を受賞しなかった場合、賞金は授与されないよう規定が変更された。 1939年11月9日、スウェーデン王立科学アカデミーは、1938年の化学賞をクーンに、1939年の化学賞の半分をブーテナントに授与することを決定した。彼らは決定を知らされて、暴力の脅威によって受賞を辞退することを余儀なくされた。彼らからの受賞辞退の手紙は、ドーマクからの受賞辞退の手紙に続けてストックホルムに到着し、受賞を辞退するようドイツ政府が強制したという疑いが確認された。1948年、彼らは、1939年に彼らが辞退を余儀なくされた賞に対する感謝を表明するアカデミーに送った。1949年7月の式典で、彼らはメダルと賞状を受け取った。
※この「ナチスドイツによる強制辞退」の解説は、「ノーベル賞を巡る論争」の解説の一部です。
「ナチスドイツによる強制辞退」を含む「ノーベル賞を巡る論争」の記事については、「ノーベル賞を巡る論争」の概要を参照ください。
- ナチスドイツによる強制辞退のページへのリンク