ナチス・ドイツと第二次世界大戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:30 UTC 版)
「ヴェルサイユ条約」の記事における「ナチス・ドイツと第二次世界大戦」の解説
英仏の対独宥和政策が強まる中、ラインラント占領が1930年6月に終了し、賠償問題もローザンヌ会議で事実上終結するなど、ヴェルサイユ条約の対独監視措置はヒトラー内閣成立の1933年以前にほとんど終了した。 反ヴェルサイユ条約を掲げたアドルフ・ヒトラーらナチ党のいわゆるナチス・ドイツ成立以降は、軍事面での監視措置を次々に破った。1933年にはジュネーブ軍縮会議から離脱した上で国際連盟から脱退し、1935年3月16日には軍備制限条項の無効を宣言し(ドイツ再軍備宣言)、1936年にはラインラント進駐を行い、ヴェルサイユ条約の軍事条項は完全に死文化した。またイギリスも1935年6月18日に英独海軍協定(英語版)を締結することでこの状況を容認し、いわゆる宥和政策が開始された。フランスは小協商諸国との連携やマジノ線建築、さらに小協商およびポーランドにソ連をくわえた東方ロカルノ体制案でドイツに抵抗しようとするが、いずれも不十分に終わったため、ドイツを抑制することはできなかった。またザールも1935年にドイツに復帰している。 ヒトラーはヴェルサイユ条約で喪失した領土と、植民地の代替となるヨーロッパ領土、いわゆる東方生存圏の獲得を狙って第二次世界大戦の引き金を引くが、結果としてドイツは崩壊し、さらなる領土と人命、財産の喪失と、ドイツの分断を招くこととなった。連合国の指導者フランクリン・ルーズベルト大統領は、休戦協定とヴェルサイユ条約が完全なドイツの敗北をドイツ人に認識させなかったことが今次の大戦の原因であると考え、枢軸国に対して完全な「無条件降伏」を求める方針をとった。またドイツ軍の降伏手続きにおいては「背後の一突き」伝説が発生しないよう、軍の指揮権を持つ者に署名させた。一方でドイツからの賠償については、正貨ではなく捕虜による労務や現物による賠償で代えた。これはヴェルサイユ条約の賠償支払い方式が経済に与えた影響をかんがみたものであったが、強制労働によって多くの捕虜の人命が失われることになった。
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