即日帰郷直後の初稿
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「サーカス (小説)」の記事における「即日帰郷直後の初稿」の解説
三島由紀夫は、戦時中の1945年(昭和20年)2月10日の入隊検査の折に、気管支炎で高熱を発していたため、新米の軍医からラッセルが聞こえるとして肺浸潤と誤診され即日帰郷となった(詳細は三島由紀夫#戦時下の青春・大学進学と終戦を参照)。父・梓と共に帰宅した三島は、勤労動員先の群馬県新田郡太田町の中島飛行機小泉製作所に戻らず(工場が空襲を受けていたという説もあり)、そのまま自宅で15日から21日夜まで「サーカス」の初稿を執筆した。この原稿の表紙には、「2605・2・15➡2・21(午後10時40分)」と神武天皇即位紀元で日付が記された。 大雪だった22日に、三島はこの「サーカス」の原稿を持って日本橋の河出書房まで行き、『文藝』の編集長・野田宇太郎に渡したが、「キッス場面」などが時局に合わず検閲に触れるおそれがあるために不採用となった。野田宇太郎は初稿の印象について、「童話風の散文詩のようなものだった」として、「単純で未熟だがいかにもまだ青年らしい空想性が強く、これが三島の身上のように思った」と回顧している。 三島はこの初稿の執筆中、友人の三谷信宛てに、〈エロテイクな個所が多いが、さういふ処をなるたけ濃厚に、しかもペタンテイツクに、壮重に、勿体振つて、お上品に、図々しく書かんとする努力に精神を集中させてゐます〉と伝えている。 この初稿は2002年(平成14年)7月刊行の決定版全集の第20巻で公表されたが、途中にいくつか欠損があり断片しかない部分もあるものの、サーカスから逃げた騎手の少年と綱渡りの少女が汽車で出奔する逃走劇が主体となり、車中での接吻場面など2人の関係が具体的に描かれている。逃亡は少年の父親の伯爵の旧領地のある〈笹戸〉駅に向かう筋立てとなっており、2人の出奔後にサーカスが火事になり天幕が燃え崩れ、炎が人々の上に落ちて象や馬が燃える描写もある。なお、創作ノートには、起稿日の翌日の2月16日に戦闘機が1,000機も来襲したこと(日本本土空襲)が記されている。 三島は終戦後の1946年(昭和21年)夏に、「サーカス」初稿を含む未刊行の短編を刊行したいという思いの元で、以下のような跋文を書いている(未刊短編集は刊行されずに、跋文も未発表のもの)。 「サーカス」――昭和廿年二月。私の頭には当然来る筈の夜間空襲の幻があつたのであらう。それは語らない種明しにすぎぬだらうか。しかし確実な予感が、しばしば物語の律調に作者が意識しない動悸を伝へてくることがある。そのころ末世といふ古い思想が、動物的な温味を帯びて私の心に甦つてゐた。 — 三島由紀夫「跋に代へて」(未刊短編集) しかしながら、この初稿では少年と少女の悲劇的な死は描かれておらず、少年の父親の旧領地へ向かう車中での〈汽笛は号泣した。……〉という文言で終っている。
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