少年期と将軍就任
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天文5年(1536年)3月10日、第12代将軍・足利義晴の長男として、東山南禅寺で誕生した。母は近衛尚通の娘・慶寿院 。幼名は菊幢丸(きくどうまる)と名付けられた。 将軍と御台所の間に生まれた男子は足利義尚以来であり、摂関家出身の女性を母に持つ将軍家の男子も菊幢丸が初めてであった。 誕生直後、父の義晴が近衛尚通に頼んだ結果、菊幢丸はその猶子となった。尚通は未来の将軍の外祖父になれたことを喜び、菊幢丸の誕生を「祝着極まりなきものなり」と日記に記している。 この頃の幕府では、父・義晴と管領の細川晴元が互いの権威争いで対立し、義晴は戦をするたびに敗れて近江国坂本に逃れ、菊幢丸もそれにたびたび従った。その後も父とともに、京都への復帰と坂本・朽木への脱出を繰り返した。また、これまでの将軍家の嫡男は政所頭人である伊勢氏の邸宅で育てられる慣例であったが、菊幢丸は両親の手元で育てられた。 天文15年(1546年)7月27日、菊幢丸は朝廷より、義藤(よしふじ)の名を与えられた。また、同年11月19日には朝廷から将軍の嫡子が代々任じられてきた左馬頭に任じられた。これらは全て、父・義晴が朝廷に依頼し、実現したものであった。 同年12月19日、義藤の元服が執り行われた。元服式は近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官・樹下成保の第で行われ、六角氏の当主・六角定頼が烏帽子親となった。将軍の烏帽子親は管領が務める慣例になっていたが、義晴は定頼を管領代に任じて元服を行った。 だが、管領ではない定頼に烏帽子親を務めさせたことは、晴元の管領としての権威を否定するものであった(そもそも、晴元は管領に任じられていなかった説もある)。なお、遊佐長教が細川氏綱を烏帽子親にするように求めて定頼に阻止されたりするなど、当時の流動的な政治背景を元に晴元の舅である定頼を烏帽子親にしたとする見方もある。定頼自身は義晴から烏帽子親になるように命じられ、何度も固辞したものの、義晴は辞退を許さなかったという。 翌20日、将軍宣下の儀式が行われ、義藤はわずか11歳にして父から将軍職を譲られ、正式に第13代将軍となった。このとき、京都より赴いた朝廷からの勅使が坂本に到着し、将軍宣下を行った。また、長教がこの儀式で重要な役割を果たしており、6千疋を献上している。 一連の行動は、父・義晴がかつての先例に倣ったものであったされ、その先例を息子にも踏襲させようとした可能性が指摘されている。義晴は大永元年(1521年)12月・当時11歳で元服・将軍宣下を行ったことに加え、自身が健在のうちに実子に将軍の地位を譲ってこれを後見する考えがあったとされる。また、朝廷は義晴がこのまま政務や京都警固の任を放棄することを憂慮し、引き留めの意図を含めて、義藤の将軍宣下の翌日に義晴を右近衛大将に急遽任じている。 同月の末、義藤は父・義晴とともに坂本を離れ、京の東山慈照寺に戻った。義藤はその直後より、将軍としての活動を開始した。 天文16年正月、細川氏綱の有力武将で京都を任せられていた細川国慶が、公家らから地子銭を横領し、被害にあった公家らが怒ったために騒動が起きた。11日に騒動は収まったかのように見えたが、義藤は国慶を将軍の「御敵」とし、「成敗すべし」との号令を下した。国慶は義藤に謝罪したが、義藤はこれを許さず、窮した国慶は京の郊外・高雄に出奔した。 正月26日、義藤は父・義晴とともに内裏に参内して、後奈良天皇に拝謁し、賀事を献じた。その際、義藤は六角氏の兵3千を率いて洛中を行進し、その武威を示した。
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