少年期から結婚に至るまでの時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 19:44 UTC 版)
「ジェームズ・クレノフ」の記事における「少年期から結婚に至るまでの時期」の解説
十代半ばにシアトルに再移住。青年期までを過ごす。両親はこの時期に別居。母子家庭となる。革命難民としての不安定な生活が続いたこともあり、正規の学校教育をまともに受けていない。若い頃の興味はもっぱらボート、ヨット造りに向けられた。自作のヨットでピュージェット湾を帆走したり、シアトルに現存するイエンセン・モーターボート社で働いたりもした。1938年には、映画『戦艦バウンティ号の叛乱』の日本向けプロモーション映像(予告編)の撮影に自作の帆船模型が採用され、賞として自転車を授与されたこともある。この木造船への興味と造詣が、後のキャビネットメーキングに発露する美意識の源泉となる。 二十代前半が、第二次世界大戦の時期に重なる。移民の身分により、徴兵はされていない。それでも、影響は大きかった。ロシア語と英語のバイリンガルであったため、武器貸与法(レンドリース法)の下で、ソビエト船への軍需物資供給の通訳業務に従事。終戦間際からの東西冷戦対立が深刻化する国際情勢の中で、徴兵もされずにソビエト援助のために立ち回ったロシア系移民であれば、戦後のアメリカ社会に安住を保証してくれる寛容さはなくなる。1950年にはマッカーシズムによる赤狩り旋風が吹き荒れる。 1947年、母親とともに、中立を保って戦火を免れたスウェーデンのストックホルムに移住。ヨーロッパ各地から押し寄せる難民・移民に交じって電気部品製造工場の労働者となる。きつい仕事に耐えながら、貯金をしては、スウェーデン北部、イタリア、フランスなどを旅行。特異な文才があり、この時期には紀行文を機関誌に寄稿したり、イタリア旅行記を刊行したりもして、旅行エッセイスト的な隠れた一面があった。アメリカからの移民労働者は珍しい存在でもあった。1949年、旅行先のパリでスウェーデン人女性、ブリッタ・リンドグレンと知り合い、1951年に結婚。以後、二児を儲ける。この結婚により、ストックホルムが初めての安住の地となる。
※この「少年期から結婚に至るまでの時期」の解説は、「ジェームズ・クレノフ」の解説の一部です。
「少年期から結婚に至るまでの時期」を含む「ジェームズ・クレノフ」の記事については、「ジェームズ・クレノフ」の概要を参照ください。
- 少年期から結婚に至るまでの時期のページへのリンク