少年期から高校時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 07:31 UTC 版)
両親が福岡県出身で、西鉄ライオンズを引き継いだ西武ライオンズの本拠地である西武ライオンズ球場(現:ベルーナドーム)に髙木をよく連れて行っていたことからファンとなる。小学2年からリトルリーグで野球を始めた。中学では「八王子リトルシニア」に所属し、チームメイトの一年上に遠藤政隆、アンジャッシュの渡部建がいた。この頃から東京六大学でプレーすることを考えていた。リトルリーグでは投手と捕手を務めていたが、捕手として試合を組み立てることに面白さを感じていたという。桐蔭学園高校では厳しい指導を受けた土屋恵三郎監督から「自分が出会った中で一番の捕手」、横浜商業高校の、古屋文雄監督からは「神奈川ナンバー1捕手」とそれぞれ評された。2年時には、1学年下の国学院久我山の井口忠仁からライバル視されており、関東を代表するスラッガーに成長していた。なお、3年時のチームメイトには、1学年下に副島孔太、2学年下に高橋由伸がいた。 1991年の第73回全国高等学校野球選手権大会では、土屋の方針で一番打撃の良い髙木が1番打者を務め、1回戦の熊本工戦において、試合開始直後に中堅へ初球本塁打になろうかという大飛球を放った。続く2回戦の柳ヶ浦高校戦は終盤戦に髙木の適時二塁打を皮切りに連打を浴びせた桐蔭が快勝。3回戦の鹿児島実業戦はサヨナラ負けに終わったものの、相手ベンチの状況からヒットエンドランを察知、また牽制球で2度走者を刺している。終盤のピンチに三塁線の打球を巡って「ファウルではないか」と審判に抗議したことが「高校野球らしくない」と批判を浴びる場面もあった。大会後には高校選抜メンバーに選出され、松井秀喜らとともにアメリカ遠征に参加。代表チームのキャプテンおよび正捕手として抜擢された。 同年のプロ野球ドラフト会議前は、日本ハムファイターズなど数球団がドラフト1位候補として挙げていたが、東京六大学へ進む為、指名を辞退し、慶應義塾大学総合政策学部にAO入試で入学。このドラフト辞退はマスコミに取り上げられ話題となった。
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