少年期と大学時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 19:26 UTC 版)
「アキーム・オラジュワン」の記事における「少年期と大学時代」の解説
ナイジェリアのラゴスでセメント業を営む父親の元、6人兄弟の3番目に生まれる。15歳までサッカーのゴールキーパーやハンドボールをしていた。この頃に、華麗なステップワークやブロックショットの基礎ができたと本人は語っている。 15歳のとき、オラジュワンはハンドボールの選手としてナイジェリアの全国大会に出場していた。この頃既に身長が2メートル以上あった彼を、同級生がバスケットボールの試合に誘った。これがバスケットボールとの出会いであり、彼の運命を変えることとなった。後にバスケットボールのナイジェリア代表の選手に選ばれた。 1980年、後にプロテニス選手となる友人のエンドゥカ・オディゾールの推薦でアメリカに移住し、名門ヒューストン大学クーガーズに入学。ところがオラジュワンはレッドシャツ(選手登録されず練習のみの参加が許される新入生のこと、2年生から選手登録されるため在学期間は5年間となる)であり、彼が頭角を現したのは2年生からであった。チームメートにはクライド・ドレクスラーも入っており、華々しいダンクで有名なファイ・スラマ・ジャマ(Phi Slamma Jamma)として人気を集める。2年生から4年生にかけてNCAAトーナメントで「ファイナル4(4強)」入りを果たした。4年生次にはパトリック・ユーイングを擁するジョージタウン大学に決勝で敗れている。この頃から、2人は終生のライバルとなる。 大学時代のオラジュワンは、1983年のNCAAファイナルフォー最優秀選手を始め、1984年には試合あたりのフィールドゴール成功率、リバウンド、ブロックショットでトーナメント1位を記録した。
※この「少年期と大学時代」の解説は、「アキーム・オラジュワン」の解説の一部です。
「少年期と大学時代」を含む「アキーム・オラジュワン」の記事については、「アキーム・オラジュワン」の概要を参照ください。
少年期と大学時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 04:17 UTC 版)
「マジック・ジョンソン」の記事における「少年期と大学時代」の解説
ミシガン州ランシングという小さな町で父アーヴィン・シニアと母クリスティンの間の7人兄弟の4番目として生まれた。両親は共に南部出身の黒人だったが、自動車関係の仕事を求めてミシガン州に移り住んできた。父親はゼネラルモーターズの傘下の会社で働くほか、副業もこなしていた。母親も学校の用務員など常に何かの仕事に就いていた。少年時代からまずは父親を相手にバスケットボールを始め、少年チームに参加し、バスケットボール漬けの日々を過ごした。 中学時代からすでに仲間内で一番の長身で、運動能力も抜群だった。一試合で48点をあげたこともあったという。その頃からミシガン州でも有名な黒人がほとんどを占めるセクストン高校への進学を夢見はじめる。バスケットの強豪校として知られる高校でプレーし、スターとなることが彼の当時の一番の夢だった。 ところが、ジョンソンが高校に進学する数年前、ミシガン州では「強制バス通学制度」ができた。人種の融合を図るため、白人がほとんどを占める高校に一定数の黒人を編入するというもので、ジョンソンの家は境界線のすぐ外に位置していた。そのため名門セクストン高校に友人達と一緒に通えないばかりか遠距離の白人ばかりの高校・エベレット高校に強制的に通わされる羽目になった。エベレット高校では不自然な少数の黒人学生の編入によってトラブルが絶えず、現にジョンソンの兄はコーチと口論になったことがもとでバスケット部を辞めてしまっている。しかし、彼は粘り強く周囲と交渉する術を学び、また誰よりも熱心に練習し、プレーして勝利をもたらすことで周囲に自分を認めさせることに成功する。ジョンソンが4年生の時、同校のチームは27勝1敗の成績をあげ、ミシガン州を制した。今に残るニックネーム「マジック」は、1年生の時のジョンソンがある試合で36得点・18リバウンド・16アシストを記録するのを見た地元の新聞記者が名付けた。まもなくこのニックネームはミシガン州全域で有名になる。また、このころからチームで最長身の選手でありながらセンターやフォワードではなく、ガードのポジションがジョンソンに適していることを高校のコーチが最初に見抜き、ポイント・ガードとしてプレーすることが多くなった。 高校の卒業を控え、全米中の大学から勧誘が殺到する。ジョンソンは州で一番のバスケットの強豪であるミシガン大学と、高校の時からよく出入りし練習にも参加させてもらっていたミシガン州立大学のどちらに進学するか、あるいは全米の他の有名大学に進学するかを相当悩んでいた。学校の恩師やバスケット関係者の多くがミシガン州立大学の出身で、本人も本当は地元のミシガン州立大学に行きたかったが、新たに同大学のコーチとなったジャッド・ヒースコートは試合中に選手を怒鳴りつけることが多く、ジョンソンはあまりいい印象を持っていなかった。しかし、彼の家を訪問したヒースコートは、「他の大学に進めば君はセンターとして起用されるだろう。しかし、私は君をポイント・ガードとして起用するつもりだ」とジョンソンの天分を見抜いた。またよく怒鳴るのも彼の情熱の現れだと知り、これが決め手となってジョンソンはミシガン州立大学への進学を決める。 大学でのジョンソンは、1年生の時にはそれまであまり強豪とは言えなかったミシガン州立大学のチーム(スパルタンズ)を率いて25勝5敗の成績を残し、NCAAファイナル・フォーにはあとわずかで届かなかったが前年とは比較にならない好成績を残す。2年生時にはスパルタンズは25勝5敗で地区制覇し、NCAAトーナメント決勝へと進出した。決勝へ勝ち上がってきたもう一つのチームは、それまで一度もNCAAトーナメントに出場もしたことのない無名校インディアナ州立大だった。同大学のチームはシーズンを33勝0敗で過ごしており、チームを率いていたのは後にマジックにとって最高のライバルとなるラリー・バードであった。両者の対決する決勝戦は大学バスケットボール決勝の歴史で最高の視聴率を記録した。前日の練習でコーチのヒースコートに「仮想・ラリー・バード」の役を演じるように命じられたジョンソンが見事なパフォーマンスを見せたことも功を奏し、ジョンソンのミシガン州立大学がバードを抑えることに成功し、75-64で勝利。ジョンソンとミシガン州立大学は初のNCAAチャンピオンとなった。しかし、この時始まったジョンソンとバードのライバル関係はプロ入り以降にも続くことになる。また、大学時代の同級生で、後に妻となる女性ともこの頃出会っている。しかし、ジョンソンはバスケットで勝利することが一番の望みで、家庭生活がその妨げになることを恐れ、その後10年以上付き合ったり、別れたり、婚約しては解消するなどの関係となり、結婚したのは1991年である。
※この「少年期と大学時代」の解説は、「マジック・ジョンソン」の解説の一部です。
「少年期と大学時代」を含む「マジック・ジョンソン」の記事については、「マジック・ジョンソン」の概要を参照ください。
- 少年期と大学時代のページへのリンク