少年期~関ヶ原の戦い
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1580年(天正8年)二代目服部半蔵である服部正成の次男として浜松あるいは岡崎で出生する。「服部半三武功記」によれば同年、父の正成は浜松にて織田信長家臣と徳川家康家臣の紛争に関与し、家康の指示で秘密裏に牢人となり妻子と共に浜松を離れたとされる。この事件ののち関ヶ原の戦いまで正重の動向は不明であるが、正重は初め徳川秀忠の小姓、のちに徳川家康の近侍を務めたとの記述がみられるため、少年期にはすでに家康・秀忠の身辺に仕えていたとみられる。 1600年の関ヶ原の戦いでは、開戦の前夜に徳川家康より直々に盃を賜り、父の正成や祖父の武功を称えられながらも「お前は若く健気であるから、決して危険な事はせぬように」と懇ろな言葉をかけられる。しかし、家康の言葉に感銘を受けた正重は奮起し、翌日の戦いには一番槍の功名を得ようと心に決め、いまだ合戦が始まらぬ早朝に一人で敵陣へ入った。家伝である「服部半三武功記」の記述から、正重は父である服部正成より合戦場での組討ちや戦闘について指導された事が窺われるため、正成が死去する慶長元年11月(1596年12月)以前にはその教えを受けていたと推察される。単身敵陣に入った正重は朱具足に猩々緋の胴肩衣を身に着けた侍大将と槍を合わせて格闘し、首をとって帰陣した。しかし、開戦前の無断での行いであったため抜け駆けと見なされて恩賞は認められず、さらに家康の勘気を被ってしまう。処分については家康の子である結城秀康が口添えした事もあり、正重は近侍を解任されたのち大久保長安に身柄を預けられる事となった。なお、この時の年齢につき「干城録」には17歳と記載されているが、17歳は父の服部正成が死去した1597年(慶長元年)時点の年齢であり、関ヶ原合戦時の正重の年齢は21歳であった。
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