休松の戦い
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休松の戦い | |
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戦争:戦国時代 (日本) | |
年月日:1567年9月3日 | |
場所:筑前国休松城周辺(現・福岡県朝倉市) | |
結果:緒戦大友軍勝利、秋月勢夜襲により大友軍大敗 | |
交戦勢力 | |
大友軍 | 秋月軍 |
指導者・指揮官 | |
戸次鑑連 吉弘鑑理 臼杵鑑速 |
秋月軍主力 秋月種実 休松籠城軍 坂田諸正 |
戦力 | |
20,000 | 12,000 |
損害 | |
400 | 不明 |
休松の戦い(やすみまつのたたかい)とは、戦国時代の九州筑前国で起きた大友氏と秋月氏の間に起きた合戦。
背景
1559年(永禄2年)に秋月氏当主・秋月種実は、毛利氏の支援を得て本領であった筑前国秋月古処山城に復帰した。元々秋月氏の本姓は大蔵氏といい、中国の漢王室の末裔と称する名族である。鎌倉の頃より、筑前国夜須郡秋月を本拠とし、近隣の原田氏や高橋氏とともにその血筋を誇る一族であった。秋月種実の父・秋月文種は勢力拡大を続ける大友氏に抵抗し、大友軍に攻められて古処山で無念の自害を遂げていた。
概要
高橋・秋月氏の謀反
古処山に戻った秋月種実は、勢力を拡大させ、大友氏への対決姿勢を鮮明にしていたことから、大友氏は種実の筑前復帰を苦々しく思っていた。高橋鑑種と結託した種実は、鑑種の謀反に同調して反乱を起こした。永禄10年8月14日、戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速ら歴戦の名将に兵20,000を与えて秋月領に侵攻させた。秋月に迫った大友軍は、まず8月14日、甘水・長谷山の戦い(瓜生野の戦いとも)で秋月勢と交戦、15日、支城である邑城を攻略した。その後、更に進軍した大友軍は休松城の攻略を開始した。守将は坂田諸正であったが、大友勢の猛攻の前に落城し、諸正は自害した。休松城周辺に布陣した戸次鑑連は古処山城攻略を画策したが古処山の守りは堅く攻めあぐねた。戦線が膠着状態に陥るなか、中国地方の毛利氏が九州への進出の気配ありとの急報を聞いた大友氏傘下の豊前・筑前・筑後の国人衆は動揺し、適当な理由を以って自領に引き上げてしまった。この状況を憂慮した大友宗麟の指示を受け、大友軍は一旦撤退を開始した。
大友軍への急襲
9月3日午前、大友軍は休松の陣を引き払い撤退を開始した。復讐に燃える種実はこの情報を知るや、全兵力12,000を四手に分け、問註所鑑景、内田善兵衛実久3,000余騎と綾部駿河守5,000余騎で大友軍へ攻撃を行った。鑑連は種実の強襲を事前に察知し3,000兵を吉光の地に伏せ、反撃を開始、配下の勇将である小野鎮幸、由布惟信500騎、一族の戸次鎮連600騎ら共に猛攻を加えた。秋月勢の問註所鑑景は2000兵を率いて、一度鑑連の本陣に攻め懸けて、銃弾で猛将・十時惟忠を討ち取っても[1]、後陣の内田鎮家、堀安芸守600兵に軍旗を上げさせ援軍が到着したかのように装った鑑連の策に騙され、動揺したところを蹴散らされ多くの死傷者を出して撤退した。
種実の夜襲
4日夜半、風雨の強まる中、種実は夜襲を決行する。2,000の兵を率いて、臼杵鑑速、吉弘鑑理の陣に突撃した。予期せぬ秋月勢の夜襲によって大友軍は大混乱に陥り、同士討ちを始める始末であった。夜襲によって大友軍は名だたる部将が討死し、全体での死者は400名以上となった[2][3][4][5][6][7][8]。 鑑連の奮戦によって、一時秋月勢を撃退して休松の陣からの撤退には成功した[9]ものの、その後秋月勢は筑後山隈城まで追撃を続け、大友軍は更なる犠牲を強いられた[10][11]。
主要参戦武将
大友軍
- 主力部隊(兵:20,000)
- 戸次鑑連
- 吉弘鑑理
- 吉弘帯刀(討死)
- 利光鎮明(兵庫助。山隈城へ撤退の際、甘木・上高場で追撃を受けて討死)
- 橋本玄蕃允(山隈城へ撤退の際、甘木・上高場で追撃を受けて討死)
- 臼杵鑑速
- 朽網鑑康
- 清田紹喜
- 一萬田鑑実
- 溝口鎮生(討死)
- 三池親高(三池鑑速)(討死)
- 三池親政(討死)
- 三池親邦(討死)
- 三池鎮実(親高の嫡男)
- 田尻鑑種
- 田尻鑑永(鑑種の叔父。長者一族六人鎮広・鎮光・鎮忠・鎮純・鎮賢・鑑永討死)
- 問注所鎮連
- 内野五郎兵衛(討死)
- 蒲池近江(討死)
- 蒲池九郎兵衛(討死)
秋月軍
- 主力部隊(兵:12,000)
- 休松城籠城隊(兵:数百)
- 坂田諸正(自害)
出典
- ^ 永禄十年(1567)八月十五日(九月三日ともいう) 桑野新右衛門、休松の戦いにて、内田彦五郎とともに、豪勇の戸次の将、十時右近惟忠を討ち取り首をあげる。(「秋月家軍功日記」「藩史備考巻一、月見打首帳」)
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 一三 大友宗麟書状 追而申候、今度之合戦別而被盡粉骨、舍弟中務少輔(鑑方)・同兵部少輔(鑑比)・刑部少輔(親繁)・隼人佐(親宗)・右京亮(親久)、其外家中之仁等、戦死之由承候、鑑連御朦氣令推察候、就中隼人佐事、此節可有同陳之由承候之条、雇かし申候之處、結句立用候、不便之儀候、于今ハ雖不入儀候、其砌頻抑留可申物をと申事候、雖然連無恙候之条、宗麟安堵難盡筆紙候、弥至彼子孫被加諫被取立候ハ、如何程も可有之之条、於于今ハ可被散愁霧候、此方氣仕之段過校量候、殊如風聞ハ、至山隈在陣之由承候、尤以肝要候、先陳通路等然々候ハねは笑止之儀候条、雖無申迄候、先陳又従当陳日田玖珠之通道輙樣才覚専候、前日如申候、人数等可入砌候間、一勢可差立哉之由申候キ、急度加勢之儀不可有油断候、此度之弓箭大綱之儀候、此節作外聞候ハねハ、永々当家之失行事候、相構なく三人之事者可有堅固事所希候、さて秋月振舞之事、無念中々不及申候、宗麟鬱憤之儀、猶以不浅候、何樣可遂本望事不可有別儀候、殊更筑後衆歴々戦死之由候、是又朦氣深重候、彼飛脚申分者、三池源十郎、田尻中務太輔事、其夜於鑑連同所心懸依感心、至彼両人鑑連着料一腰遣之由、承候、案中候、定而武具等可為大望候哉、雖不然々候、自然之時之用所と存、誘置候、若用所もやと存、打物一腰進之候、金あハひ大かたに候すると存候、御秘蔵者可為満足候、濃々雖申度候、彼飛脚差急帰遣候間、不細書候、一両日中態可差遣一人之条、其境節可申之趣、猶宗鳳可申候、恐々謹言、 九月八日 戸次伯耆守殿 P.341。
- ^ 『九州諸将軍記』、『筑前国続風土記』による。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61立花文書『戸次道雪譲狀』358頁
- ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.35~38
- ^ 中野、穴井 2012, pp. 23–24.
- ^ 『柳河戦死者名譽錄』(九)筑前休松 永禄十年九月三日 P.5~7
- ^ 休松の戦い(休山茄子城合戦)戸次家中戦死者の眞相
- ^ 『史料綜覧 巻10』 p.664
- ^ 『筑後将士軍談』 卷之第九 秋月城軍之事、休松軍之事 P.240~243
- ^ 吉永正春『筑前戦国史』休松の合戦 p.36~41
参考文献
- 『九州諸将軍記』
- 『筑前国続風土記』
- 『戸次軍談』
関連項目
固有名詞の分類
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