分流・柳川藩家老家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/27 04:00 UTC 版)
惟信(長門守)の長男の上総介のほかに男子がおり、三男の河内守、四男の孫右衛門、五男の勘解由がそれぞれ十時氏分流となった。 十時氏分流のうち、十時氏初代の惟信(長門守)の四男にあたる孫右衛門の子孫で石高2000石(初め3000石)の家と嫡家4代目で休松の戦いで戦死した十時惟忠(右近太夫)の次男十時連秀の子孫で石高1000石の家が江戸時代に柳川藩の組頭世襲の家老家となる。このうち前者は十時惟次、十時連貞を輩出したほか、最後の柳川藩主立花鑑寛の外祖父で立花大学家の祖となる立花通厚が養子となっていた。
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