戸次鑑方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/02 06:24 UTC 版)
戸次 鑑方(べっき あきかた)は、戦国時代の武将。大友氏の家臣。大友氏庶流の戸次氏の一族。養母は養孝院[1](立花道雪の母)。異母兄に戸次鑑連(のちの立花道雪)、異母弟に戸次親行[5][6]。子に戸次鎮連[2]、戸次鎮林(しげきみ/しげとき)[3]がいる。
- ^ a b c 『立花遺香』によると、実は田原親賢の弟であるとされる。戸次中務の母が懐妊した時、正光院(由布惟常の娘、道雪の生母)が女子ならば母と共に暮らすようにと命じたが、果たして女子が生まれた。ちょうど同じ頃に紹忍の親の妻も男子を出産したが、民間信仰で「嫌年の子」とされる不吉な時期に生まれたので養子出す必要があり、交換したのだという。
話の出所は、紹運の家臣・有馬伊賀(立花宗茂初陣の後見役)の姉で紹忍の妻いそと、宗茂の生母・宋雲院との会話であるが、正光院は道雪を産出した翌年の永正11年(1514年)に病歿したので、原文でも「しかと承り得ず」として人物は不明とする。養孝院(臼杵長景の娘、道雪の継母)の間違いかもしれない。紹忍の親の妻が、実父奈多鑑基の室なのか、養父田原親資の室なのかは言及されていない[4]。 - ^ a b 立花氏を継いだ伯父・鑑連から戸次氏宗家の家督を継ぐ。
- ^ a b 立花の姓を与えられる。文禄の役で戦死。
- ^ 高本紫溟 編『国立国会図書館デジタルコレクション 立花遺香』国史研究会〈日本偉人言行資料〉、1916年 。
- ^ 子に立花次郎兵衛統春。
- ^ 異母弟の戸次親行も恐らく、養孝院が他家より引き連れ、養女と結婚した婿養子であるが、1565年に18歳の若さで病死した。夫の戸次親家は1526年に病歿したので、1547年生まれの親行は親家の実子ではありえない[要出典]。
- ^ 名(諱)は鑑堅と表記される場合もあるが、従兄弟に同名の人物がいるため鑑方で書かれる場合が多い。
- ^ 大分県教育庁文化課 編『大友宗麟 資料集』第一巻、大分県教育委員会、1993年[要ページ番号]
- ^ 大分県教育庁文化課 編『大友宗麟 資料集』第二巻、大分県教育委員会、1993年[要ページ番号]
- 1 戸次鑑方とは
- 2 戸次鑑方の概要
固有名詞の分類
- 戸次鑑方のページへのリンク