毛利勢の東進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 03:40 UTC 版)
信長と断交した後の毛利氏は、山陽道から東進して上洛するルート、山陰道から京都の背後にせまっていくルート、そして、海上から和泉あるいは摂津に上陸するルートの三方面からの進攻作戦を考えていた。山陰道・山陽道のルートはそれぞれ輝元の2人の叔父吉川元春・小早川隆景が担当になった。 天正3年の時点で毛利と同盟を結んでいた直家が浦上宗景の所領をほぼ掌握し備前より東への東征が可能になると、天正4年に毛利氏は播磨に侵入して上月城(兵庫県佐用郡佐用町)に兵を進めた。こうして、毛利勢の播磨侵攻の機が熟した。同月、信長の紀州攻めに播磨三木城の別所長治が従軍したことで播磨方面での軍事的均衡が崩れ、これが毛利勢東進の直接のきっかけとなった。3月、宇喜多直家はじめ備前・美作の兵が国境を越えて播磨に進入し、龍野城主赤松広英を毛利方に寝返らせている。 4月から5月にかけては、毛利氏は上月城を前線にして姫路(兵庫県姫路市)へ兵を進めた。4月、海上からも室津(兵庫県たつの市)に上陸し、英賀(兵庫県姫路市)から姫路をめざした。英賀は播磨の一向宗門徒の中心地で、毛利勢はここにも軍事拠点を設けていた。この間、小早川隆景は備中笠岡(岡山県笠岡市)に進出して本陣をおき、当主輝元は安芸三原(広島県三原市)に本営を構えた。毛利勢は、姫路で御着城主小寺政職によって撃退され、いったん上月に退却した(英賀合戦)。この時、政織の家臣小寺官兵衛(黒田孝高)のめざましい活躍は自家の家運をひらく端緒となった。なお、黒田孝高の居城姫路山城(兵庫県姫路市)は後に秀吉に献上され、孝高自身も中国攻略戦のなかで秀吉に重用されることとなる。 備後の鞆にいた義昭は毛利勢を励まし、謙信に越前進攻を命じ薩摩の島津氏に援助をもとめた。義昭は7月7日付で村上左衛門大夫に、幕府奉行人奉書の形式を用いて摂津尼崎(兵庫県尼崎市)の土地を給与している。奉行人奉書は、管領奉書の替わりとなった将軍の公的な命令書(奉書)であり、この命令が最後の奉行人奉書となった。 天正5年7月、毛利勢は四国地方の讃岐・阿波へ侵入し、信長に服属した三好氏の勢力を攻撃した。戦後毛利氏と三好氏の間で交渉がなされたが、鞆にいた義昭の裁定により、三好勢が人質を差し出すことで講和が成立した。
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