毛利元就の娘婿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/01 13:48 UTC 版)
備後国世羅郡甲山の今高野山城を本拠とした国人である上原豊将の嫡男として生まれる。 父の豊将が毛利元就に属して天文22年(1553年)の備後経略に功を立てたことによって、元将は元就の三女を娶ることとなり、以後毛利氏の一族として重きをなした。 天正7年(1579年)、宇喜多直家が毛利氏を離反して織田氏に味方し、毛利方の備中忍山城を攻撃し占領した。この宇喜多氏の動きに対し、毛利輝元は自ら吉田郡山城を出陣し、同年12月24日に吉川元春・小早川隆景と共に忍山城を総攻撃して翌12月25日夜に陥落させた。これによって宇喜多氏の勢力は備中国から駆逐され、輝元は次に美作国へと進軍する。備中国では、備前国との国境防備の強化のために備中国賀陽郡の各城の防備が固められ、元将は日幡城に入城した。
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