毛利元就との戦いと最期
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その後、晴賢は大内氏内部の統制という目的もあって徹底した軍備強化を行なった。北九州の宗像地方を影響下に置くため、宗像氏貞を送り込み、山田事件を指示したともされている。しかし、この晴賢の政策に反発する傘下の領主らも少なくなかった。天文23年(1554年)、それが義隆の姉を正室とする石見国の吉見正頼と安芸国の毛利元就の反攻という形で現われた。 晴賢は直ちに吉見正頼の討伐に赴くが(三本松城の戦い)、主力軍が石見国に集結している隙を突かれて元就によって安芸国における大内方の城の大半が陥落してしまった(防芸引分)。このため、晴賢は窮余の一策として宮川房長を大将とした軍勢を安芸国に送り込むが、折敷畑の戦いで大敗してしまい、安芸国は毛利家の支配下となった。 天文24年9月21日(1555年10月6日)、晴賢は自ら2万から3万の大軍を率いて安芸厳島に侵攻し、毛利方の宮尾城を攻略しようとした。だが、毛利軍の奇襲攻撃によって本陣を襲撃されて敗れてしまう。毛利氏に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて退路も断たれてしまい、逃走途中で自害した(厳島の戦い)。享年35。辞世は「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に」。 遺骸は桜尾城で首実検の後、洞雲寺に葬られた。
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