毛利両川体制
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以後の小早川氏は毛利一門に組み込まれ、毛利氏直轄の精強な水軍として活躍することになる。隆景の率いた小早川水軍は、毛利氏が一躍世に出た弘治元年(1555年)の厳島の戦いにおいて、陶晴賢率いる大内水軍を破って海上を封鎖し、毛利軍の勝利に大いに貢献している。この時、乃美宗勝を通じて村上水軍を味方に引き入れる調略でも功を挙げている。また、毛利氏と村上水軍や伊予国の河野氏との関係は直接的なものではなく、瀬戸内海沿岸を本拠とした隆景を介したものであったとされる。厳島の戦い直前に自分の姉が生んだ宍戸隆家の娘を養女に迎えて村上通康に嫁がせたことが判明しており、厳島の戦いの村上水軍の参加もこの線からのものと考えられている。 弘治3年(1557年)、周防・長門を攻略し、大内氏を滅ぼした戦い(防長経略)にも参加している。 同年、元就が隠居し、長兄の毛利隆元が家督を継ぐが、隆景は次兄の吉川元春とともに毛利氏の中枢にあり続ける。 永禄6年(1563年)、隆元が急死し甥の毛利輝元が家督を継ぐと、元春とともに幼少の輝元を補佐した。元春が軍事面を担当したのに対し、隆景は水軍の情報収集力を活かし主に政務・外交面を担当している。 永禄5年(1562年)から永禄9年(1566年)にかけて、月山富田城の戦いに参加し、宿敵尼子氏を滅ぼす。 永禄10年(1567年)、河野氏を助けて伊予国に出兵し、大洲城を攻略して宇都宮豊綱を降伏させる(毛利氏の伊予出兵)。さらに大友氏と争い九州に出兵する。 同年、来島通康が没すると、隆景は未亡人となった宍戸隆家の娘を通康の主筋にあたる河野通宣の室に送り込み影響力を強めた。近年、河野氏最後の当主となった河野通直は宍戸隆家の娘と来島通康の間の息子で、隆景らの後押しで河野氏の養嗣子になったとする説が出ている。 元亀2年(1571年)、三村氏の所領であった備前児島を狙って兵を動かした浦上宗景と、これに同調する動きを見せた村上武吉らと交戦。4月に村上軍の本太城を陥落させ、児島にも粟屋就方を送り込んだが、5月の児島の戦いで浦上宗景と増援に現れた三好氏配下の篠原長房の攻撃により粟屋就方は惨敗し、児島制圧に失敗した。 そうした情勢の中、6月に元就が危篤になると、備前に駐軍を続ける事が出来なくなり、児島周辺の情勢を憂慮しながらも兵を一旦安芸へ退かざるを得なくなった(『萩藩閥閲録』)。 元就の死後、まだ若い輝元の補佐役として毛利氏の中での元春・隆景兄弟の役割はますます大きくなり、大友氏や尼子氏、大内氏の残党らと争い各地を転戦する。
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