毛利両川体制とは? わかりやすく解説

毛利両川体制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 11:05 UTC 版)

小早川隆景」の記事における「毛利両川体制」の解説

以後小早川氏毛利一門組み込まれ毛利氏直轄精強水軍として活躍することになる。隆景の率いた小早川水軍は、毛利氏一躍世に出た弘治元年1555年)の厳島の戦いにおいて、陶晴賢率い大内水軍破って海上封鎖し毛利軍勝利大い貢献している。この時、乃美宗勝通じて村上水軍味方引き入れる調略でも功を挙げている。また、毛利氏村上水軍伊予国河野氏との関係は直接的なものではなく瀬戸内海沿岸本拠とした隆景を介したものであったとされる厳島の戦い直前自分の姉が生んだ宍戸隆家の娘を養女迎えて村上通康に嫁がせたことが判明しており、厳島の戦い村上水軍参加もこの線からのものと考えられている。 弘治3年1557年)、周防長門攻略し大内氏滅ぼした戦い防長経略)にも参加している。 同年元就隠居し長兄毛利隆元家督を継ぐが、隆景は次兄吉川元春とともに毛利氏中枢にあり続ける。 永禄6年1563年)、隆元急死し甥の毛利輝元家督を継ぐと、元春とともに幼少の輝元を補佐した。元春が軍事面担当したのに対し、隆景は水軍情報収集力活かし主に政務外交面を担当している。 永禄5年1562年)から永禄9年1566年)にかけて、月山富田城の戦い参加し宿敵尼子氏を滅ぼす。 永禄10年1567年)、河野氏助けて伊予国出兵し、大洲城攻略し宇都宮豊綱降伏させる毛利氏の伊予出兵)。さらに大友氏争い九州出兵する同年来島通康没すると、隆景は未亡人となった宍戸隆家の娘を通康の主筋にあたる河野通宣の室に送り込み影響力強めた近年河野氏最後当主となった河野通直宍戸隆家の娘と来島通康の間の息子で、隆景らの後押し河野氏養嗣子になったとする説が出ている。 元亀2年1571年)、三村氏所領であった備前児島狙って兵を動かした浦上宗景と、これに同調する動き見せた村上武吉らと交戦4月村上軍の本太城陥落させ、児島にも粟屋就方送り込んだが、5月児島戦いで浦上宗景増援現れ三好氏配下篠原長房攻撃により粟屋就方惨敗し児島制圧失敗したそうした情勢の中、6月元就危篤になると、備前駐軍続ける事が出来なくなり児島周辺情勢憂慮しながらも兵を一旦安芸へ退かざるを得なくなった(『萩藩閥閲録』)。 元就死後、まだ若い輝元の補佐役として毛利氏の中での元春・隆景兄弟役割はますます大きくなり、大友氏尼子氏大内氏残党らと争い各地転戦する。

※この「毛利両川体制」の解説は、「小早川隆景」の解説の一部です。
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