毛利との決別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 14:51 UTC 版)
永禄6年(1563年)5月頃、政宗と和睦して後顧の憂いを断った宗景は、三村家親とも戦闘に突入。同年12月までに毛利氏とも断交し戦国大名としての道を歩み始める。 翌、永禄7年(1564年)、政宗とその嫡男・清宗が赤松政秀に殺害されるという事件が起こるものの、跡を継いだ浦上誠宗に特に変わった動きは無く、三村との戦いに専念した宗景は、明善寺合戦での勝利などを経て、永禄10年(1567年)には備前から三村・毛利の勢力を駆逐する事に成功する。また、同年に浦上惣領家の誠宗を暗殺し、翌、永禄11年(1568年)には備前国内有数の国人・松田氏を滅ぼして、その版図を瀬戸内海の児島を除く備前全域と美作東南部に拡大させ、戦国期の浦上氏の地位を確立する。 ただし、これに至るまでの戦いで大きな戦果を上げた宇喜多直家や直家家臣の岡氏や長船氏は、あくまでも独立性の強い勢力であり、宗景とは「やや軍事的従属という形での同盟相手」といった形の勢力であったようで、大名とその家臣というような主従関係とは言い難かった。そこで宗景は直家領の水運など重要な拠点に直轄地を多く設けて代官を派遣するなどして直家の領内統治に制限を掛けていた。また、美作に勢力を伸張していた浦上氏だが直家に与えられた所領はあくまで西備前の周辺程度に留まっていて、美作の統治は沼本氏や菅納氏らの在地の国人がそのまま行っており、今日に誤って伝聞されているような「主家を凌ぐ」というほどでは無くあくまで一陪臣レベルのものに過ぎなかった。しかしながら直家の勢力は松田氏の旧領の一部や家臣などを取り込んで備前への影響力を増しており、これらの要素は後々宗景にとって不利に働く事となる。
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