毛利の動きと和睦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/14 03:52 UTC 版)
一方の安芸では、3月上旬には晴賢の密書や密使が元就に露呈していた。これは、2月末に安芸国人に対して晴賢が出した密書・密使であるが、安芸国人の取りまとめは毛利が行うというこれまでの約束を違えるものであったため、毛利に忠誠を誓う平賀氏が密使を捕縛したのである。これにより元就の大内氏からの離反・独立の動きが加速。5月12日に毛利は大内・陶と決別して挙兵し、電撃的に安芸の陶方諸城を落とした(防芸引分)。これに驚いた晴賢は、家臣の宮川房長に3,000の軍勢を預けて安芸に急行させるが、6月5日に撃ち破られてしまった(折敷畑の戦い)。 なお、三本松城での戦いでは、毛利家臣の二宮右忠・伊藤元種が若干の手勢を率いて援軍に駆けつけ、中荒城の防備増強に協力したとも伝えられている。しかし、前述の防芸引分から折敷畑の戦いまでの経緯・状況を踏まえると援軍派遣は疑問視され、実際には毛利からの援軍はないと考えられる。 晴賢は、毛利に反対する一揆衆や配下の警固衆(水軍)を利用して毛利を牽制するが、大内・陶の主力が石見三本松城に釘付けにされている間に、元就による安芸国の掌握を進めることで苦境に陥ったことは明らかであった。その一方で、正頼の方も長引く籠城戦で兵糧不足が問題となっていた。そのため、大内・陶と吉見の間で和睦に向けた動きが始まり、9月2日には正頼の子・亀王丸(後の吉見広頼)を山口に人質として送ることを条件に和睦が成立。三本松城は、下瀬城・御嶽城と共に籠城戦に耐えて落城を免れた。
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