毛利から離反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 21:20 UTC 版)
その後、天正2年(1574年)、その毛利氏が不倶戴天の敵である宇喜多直家と結んだため、元親は叔父・三村親成や竹井氏など一部重臣の反対を押し切り、織田信長と通じ、毛利氏から離反。また、同年に宇喜多直家との天神山城の戦いで苦戦していた浦上宗景や三浦貞広と結んだ。 元親の離反に際して毛利家中の一大事と見て三村氏討伐を進言する小早川隆景に対し、吉川元春は(毛利家が宇喜多氏と結ぶこと自体にも反対していたが)元親と直接会って翻意させるので討伐は避けるようにと進言した。しかし、山陽道を任せられていたのは小早川隆景であり、元春は山陰道を任せられていたため進言は容れられず、隆景の意見が採用された。同年11月には早くも三村討伐軍が編成され出雲国から庄勝資・植木秀資らが侵攻して佐井田城を攻略し備中兵乱の口火を切った。
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