停戦期間と水面下の外交合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:15 UTC 版)
「天神山城の戦い」の記事における「停戦期間と水面下の外交合戦」の解説
こうした状況を打破すべく宇喜多直家は小早川隆景に書状を送り、対して浦上宗景も吉川元春に書状を送ったが、毛利は宇喜多を支援することで決定した。この毛利の決定に反発したのが宇喜多と長年争ってきた備中の三村元親であり、三村との関係を悪化させてまで宇喜多と結ぶ事には吉川元春らが反対したものの小早川隆景・安国寺恵瓊ら賛成派が押し切った。三村元親は天正2年(1574年)8月の時点で既に織田信長から「備中の本領に加えて備後一国を与える」というの条件で調略を受けていたが、毛利が宇喜多と同盟したことにより著しく関係が悪化したに目をつけた大友宗麟の要請で三浦家臣の牧尚春が三村氏に調略を仕掛け毛利との手切れを勧めた。この調略に毛利との関係維持を唱えた三村親成ら一部を除く元親始め三村一門は賛同の意を示し、ついに三村氏は毛利と手切れして織田信長と同盟し、身の危険を感じた親成らは毛利を頼って備中を脱した。三村が毛利から離反した事により宇喜多は三方を敵領に囲まれる事となったが、毛利の対応は迅速であり、同年11月には早くも三村討伐軍を編成し備中に大軍を送り込んだ(備中兵乱)為、三村軍は毛利への対応で手一杯であり、浦上への助けとはならなかった。 しかし、天正2年(1574年)11月から毛利と三村の備中の抗争が激化する中で、これ以後5ヶ月ほどの間に渡って浦上・宇喜多両家の戦があった事を示す書状が現在のところ発見されておらず、理由は不明であるが一定の期間停戦していたのではないかと推測されている。ただ、再び開戦する日の為に両家は水面下で諸勢力に働きかけて準備を進めており、浦上宗景は12月に高田城在番の牧清冬に書状を送って備中の戦況を報じるなど情報をやり取りし、宇喜多直家は宗景討伐の大義名分を得るために播磨の小寺氏預かりとなっていた浦上誠宗(宗景の甥で本来の浦上氏嫡流。宗景の手の者に暗殺される)の子である浦上久松丸の身柄を引き取り、小早川隆景も小寺氏が久松丸引渡しに動いてくれたことに感謝の書状を送っている。
※この「停戦期間と水面下の外交合戦」の解説は、「天神山城の戦い」の解説の一部です。
「停戦期間と水面下の外交合戦」を含む「天神山城の戦い」の記事については、「天神山城の戦い」の概要を参照ください。
- 停戦期間と水面下の外交合戦のページへのリンク