停戦成立までの戦闘とは? わかりやすく解説

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停戦成立までの戦闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)

ノモンハン事件」の記事における「停戦成立までの戦闘」の解説

関東軍は、ソ連軍総攻撃対し8月26日第7師団主力チチハルからノモンハン増援として向かわせた。しかし関東軍意外なほどに戦局楽観視しており、日本軍最後拠点バルシャガル高地ソ連軍猛攻受けていた8月26日には「ノモンハン方面の敵盲進のを捉え一大鉄槌加うる」、バルシャガル高地事実上陥落した8月29日には「冬季速やかに敵に徹底的打撃与うること絶対に必要」との認識で、第6軍第2師団第4師団第1師団主力第8師団一部関東軍の持つ全速射砲をつぎ込んで大攻勢目論んでいた。 参謀本部は、戦局関東軍通して報告受けていたので、実情十分に把握できていなかったが、参謀本部第2部第5課(露西亜課)は独自のルートノモンハン戦況をつかみ、同課の甲谷悦男少佐から「ノモンハン総崩れ」という報告なされるなど、8月29日頃には戦局はかなり厳しということをようやく把握した。そのため、8月30日には方針転換した大陸命343号』を起案し、趣旨説明参謀次長中島らが関東軍出向いた。 参謀本部意図中島持参した大陸命343号』の一項に書かれてあった通り北方平静維持するにあり、之が為「ノモンハン方面に於いては勉めて作戦拡大することなく速やかに之が終結策す」とノモンハン事件早期収束であったこの頃ノモンハンでの戦い仕切っていた関東軍参謀の辻は、今まで経験により「戦法改めねばならぬ戦車重砲飛行機において我に数倍する敵に、従来のような原則的戦法では到底勝つ見込みはない」と考え、その新し戦術として、前代未聞の3個師団もの大兵力による集中的な夜襲攻撃考案していた。ただしこの作戦苦肉の策とも言えるもので、発案者の辻ですら「名案ではなく、これ以外に勝ち目はない」としていた。 参謀本部から関東軍説得に来たはずの中島であったが、8月30日新京行われた関東軍司令部中島らの作戦会議で、関東軍司令官植田作戦課長寺田から辻考案の3個師団夜襲作戦説明されると、関東軍との融和第一に考えていた中島関東軍作戦案に同意してしまう。その夜祝宴開かれたが、中島らと関東軍司令部大い打ち解け、辻も「これなら今度攻勢は必ず成功するぞ。必勝信ず空気満ちた」と当時思い回想している。中島丸め込まれたことを知った参謀本部作戦課長稲田はすぐに次の手を打ち、「情勢鑑み大本営自今ノモンハン方面国境事件自主的終結企画す」「関東軍司令官は「ノモンハン方面に於ける攻勢作戦中止すべし」とより具体的で断定的となる『大陸命349号』を出した前回丸め込まれ中島が、この命令持参して9月4日再度関東軍司令部訪れ命令と「大陸命に基き隠忍自重他日雪辱期しよく上下抑制して時局収拾善処せんことを切望す」との参謀総長言葉植田渡している。中島説明植田関東軍参謀長磯谷廉介は「前命令からわずか4日しか経っておらず、戦況には何の変化もないのに、この急変は、なぜか」と激怒し詰め寄ったが、前回懲りた中島は「大命です」の一点張り突き通した。そこで植田は「戦場残され遺体の収容をするための出撃だけはぜひ許可して欲しい」と懇願したが、中島は「それさえも、お許しならないのが大命趣旨です」と突っぱねた。関東軍は「戦場整理」の名目攻勢発動をする目論見であったが、中島はそれを見抜き拒み続けた最後に植田辞任ちらつかせ迫ったが、中島は「上司伝えます」とだけ答えると、今回新京長居することなく半日滞在東京引き揚げた。 参謀本部頑なな態度植田関東軍司令部もついに観念し9月6日植田署名では最後となる関東軍命令『関作命第178号』が発せられ、ノモンハン方面での攻勢作戦一切中止され実質的にノモンハン事件終わった。しかし第6軍関東軍から増援された各部隊引き続き指定されノモンハンの展開予定地に突き進んでおり、その第6軍に対して関東軍は「自重せらるると共に別命ある迄万一応ず作戦準備依然継続」などと思わせぶり指示与えていたため、この時点で、関東軍から多く増援得ていた第6軍司令洲は高揚していた。この時洲の指揮下には第23師団残存の他に、第2、第4、第7師団と第1、第8師団一部重砲と全満州からかき集めた速射砲230門があり、総兵力65,000名にもなっていた。ノモンハンに関する記述で、よく日本軍参戦兵力として記述されるのが、この時点での兵力である。さらに9月3日には、参謀本部が第5、第14師団などの増援決定したという報告受けていたが、その増援加えると10万上の規模達するため、洲の気持ちはさらに高まり「速に敵に鉄槌一撃加え国境鼠賊掃滅蠢動一挙に封殺し、皇軍の慰武を宣揚以って大元帥天皇陛下信倚応え」と部隊飛ばしている。そんな司令官高揚全軍伝播したのか、『関作命第178号』が第6軍参謀到着した際は、参謀長藤本一読するポケットねじ込み「当分のうちはこの電報絶対に他に漏らしてはならぬ」と部下参謀厳命している。 第6軍は、関東軍から派遣されていた島貫参謀計画で、『関作命第178号』の発令前の9月4日第2師団第15旅団旅団長片山省太郎少将)に997高地への夜襲計画していたが、6日に一旦中止、しかし『関作命第178号』発令後9月7日に、島貫直接片山旅団歩兵第16連隊連隊長宮崎繁三郎大佐)に当初計画通り977高地への夜襲命じた宮崎連隊夜襲時に977高地防衛していたのは、狙撃兵603連隊モンゴル兵の300前後であったが、激戦の末、8日朝に977高地占領、さらに9日には第16連隊第2大隊大隊長尾ノ山少佐)が隣接する904高地占領した同日日中ソ連軍は、第6戦車旅団戦車150輌を含む大部隊で逆襲してきたため、尾ノ山大隊と激戦繰り広げられた。尾ノ山は軍刀片手先頭で「一歩も退くな」と部下激励していたが、宮崎連隊主力引き連れて戦場到達する前に戦局ひっ迫したため、自ら軍刀火炎瓶持って突撃大隊機関銃中隊長浅井大尉もそれに続いた尾ノ上は手にした軍刀ソ連兵をたちまち3人斬って捨てると、火炎瓶投擲し敵戦車擱座させている。しかし、2個目の火炎瓶投げた直後に敵の機銃弾を胸、腹、頭に3発受けて戦死した。それを見ていた浅井は、ソ連兵2名を軍刀斬殺しながら尾ノ上接近しようとしたが敵弾倒れた。まもなく宮崎率い連隊主力到着ソ連軍尾ノ上大隊が守る904高地全力攻撃していたので、宮崎率いてきた第3大隊ソ連軍側面攻撃するよう命令同時に野砲速射砲猛射浴びせて次々と戦車撃破した第2大隊奮戦苦戦していたソ連軍は、第16連隊圧倒的に上回る戦力ありながら日本軍の増援出現驚いて戦車残骸20輌、多数武器遺棄死体残して撤退していった。第16連隊寡勢よく大敵撃退した旅団長片山称賛されたが、第2大隊大隊長尾ノ上中隊長浅井含め168名の戦死者、第16連隊全体でも189名の戦死者を出すなど損害大きかった。やがて停戦が決まると、宮崎部隊石工出身兵士命じ十数個の石に部隊名と日付刻み付けて、占領地地中埋め込んだが、これが後の国境画定交渉日本側の主張が通る大きな要因となり、第16連隊は「ノモンハン唯一の勝利部隊」と称賛された。 また、11日には独立守備隊歩兵16大隊大隊長深野時之助中佐)と独立守備隊15大隊黒崎中隊日本軍合計400名が吹雪の中、1031高地ハルハ山。ソ連側呼称マナ山)に進攻し、1031高地防衛していたモンゴル軍騎兵第8師団22連隊600名)を白兵戦潰走させて占領したモンゴル軍退却した後には、遺棄死体22体、砲4門、数十頭の軍馬残されていた。ノモンハン最後の戦いでの日本軍快勝劇であり、責任問われモンゴル軍騎兵第8師団22連隊のバダルチ連隊長処刑されている。その後モンゴル軍要請受けたジューコフ奪還準備していた9月15日停戦となり、1031高地最後まで日本軍確保した。この1031高地占領おかげで停戦後領土交渉の際に日本は、ソ連軍占領されたハイラースティーン(ホルステン)川周辺係争地とほぼ同じ面積 (500 km2) の広大な土地確保することができた。

※この「停戦成立までの戦闘」の解説は、「ノモンハン事件」の解説の一部です。
「停戦成立までの戦闘」を含む「ノモンハン事件」の記事については、「ノモンハン事件」の概要を参照ください。

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