停戦成立までの戦闘
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「ノモンハン事件」の記事における「停戦成立までの戦闘」の解説
関東軍は、ソ連軍の総攻撃に対し、8月26日に第7師団の主力をチチハルからノモンハンに増援として向かわせた。しかし関東軍は意外なほどに戦局を楽観視しており、日本軍最後の拠点バルシャガル高地がソ連軍の猛攻を受けていた8月26日には「ノモンハン方面の敵盲進のを捉え、一大鉄槌を加うる」、バルシャガル高地が事実上陥落した8月29日には「冬季前速やかに敵に徹底的打撃与うること絶対に必要」との認識で、第6軍に第2師団、第4師団、第1師団主力、第8師団の一部と関東軍の持つ全速射砲をつぎ込んで大攻勢を目論んでいた。 参謀本部は、戦局を関東軍を通して報告を受けていたので、実情を十分に把握できていなかったが、参謀本部第2部第5課(露西亜課)は独自のルートでノモンハンの戦況をつかみ、同課の甲谷悦男少佐から「ノモンハンは総崩れ」という報告がなされるなど、8月29日頃には戦局はかなり厳しいということをようやく把握した。そのため、8月30日には方針を転換した『大陸命第343号』を起案し、趣旨説明に参謀次長の中島らが関東軍に出向いた。 参謀本部の意図は中島が持参した『大陸命第343号』の一項に書かれてあった通り「北方の平静を維持するにあり、之が為「ノモンハン」方面に於いては勉めて作戦を拡大することなく速やかに之が終結を策す」とノモンハン事件の早期収束であった。この頃にノモンハンでの戦いを仕切っていた関東軍参謀の辻は、今までの経験により「戦法も改めねばならぬ、戦車と重砲と飛行機において我に数倍する敵に、従来のような原則的戦法では到底勝つ見込みはない」と考え、その新しい戦術として、前代未聞の3個師団もの大兵力による集中的な夜襲攻撃を考案していた。ただしこの作戦は苦肉の策とも言えるもので、発案者の辻ですら「名案ではなく、これ以外に勝ち目はない」としていた。 参謀本部から関東軍を説得に来たはずの中島であったが、8月30日新京で行われた関東軍司令部と中島らの作戦会議で、関東軍司令官の植田、作戦課長の寺田から辻考案の3個師団夜襲作戦を説明されると、関東軍との融和を第一に考えていた中島は関東軍の作戦案に同意してしまう。その夜は祝宴が開かれたが、中島らと関東軍司令部は大いに打ち解け、辻も「これなら今度の攻勢は必ず成功するぞ。必勝を信ずる空気に満ちた」と当時の思いを回想している。中島が丸め込まれたことを知った参謀本部作戦課長の稲田はすぐに次の手を打ち、「情勢に鑑み大本営は自今「ノモンハン」方面国境事件の自主的終結を企画す」「関東軍司令官は「ノモンハン」方面に於ける攻勢作戦を中止すべし」とより具体的で断定的となる『大陸命349号』を出した。前回丸め込まれた中島が、この命令を持参して9月4日に再度関東軍司令部を訪れ、命令と「大陸命に基き隠忍自重、他日の雪辱を期しよく上下を抑制して、時局の収拾に善処せんことを切望す」との参謀総長の言葉を植田に渡している。中島の説明に植田と関東軍参謀長の磯谷廉介は「前命令からわずか4日しか経っておらず、戦況には何の変化もないのに、この急変は、なぜか」と激怒し詰め寄ったが、前回に懲りた中島は「大命です」の一点張りで突き通した。そこで植田は「戦場に残された遺体の収容をするための出撃だけはぜひ許可して欲しい」と懇願したが、中島は「それさえも、お許しにならないのが大命の趣旨です」と突っぱねた。関東軍は「戦場整理」の名目で攻勢発動をする目論見であったが、中島はそれを見抜き拒み続けた。最後に植田は辞任もちらつかせ迫ったが、中島は「上司に伝えます」とだけ答えると、今回は新京に長居することなく半日の滞在で東京に引き揚げた。 参謀本部の頑なな態度に植田ら関東軍司令部もついに観念し、9月6日に植田の署名では最後となる関東軍命令『関作命第178号』が発せられ、ノモンハン方面での攻勢作戦は一切中止され、実質的にノモンハン事件は終わった。しかし第6軍に関東軍から増援された各部隊は引き続き指定されたノモンハンの展開予定地に突き進んでおり、その第6軍に対して関東軍は「自重せらるると共に別命ある迄万一に応ずる作戦準備は依然継続」などと思わせぶりな指示を与えていたため、この時点で、関東軍から多くの増援を得ていた第6軍司令荻洲は高揚していた。この時荻洲の指揮下には第23師団の残存の他に、第2、第4、第7師団と第1、第8師団の一部に重砲と全満州からかき集めた速射砲230門があり、総兵力は65,000名にもなっていた。ノモンハン戦に関する記述で、よく日本軍の参戦兵力として記述されるのが、この時点での兵力である。さらに9月3日には、参謀本部が第5、第14師団などの増援を決定したという報告も受けていたが、その増援を加えると10万以上の規模に達するため、荻洲の気持ちはさらに高まり「速に敵に鉄槌的一撃を加え、国境鼠賊掃滅の蠢動を一挙に封殺し、皇軍の慰武を宣揚し以って大元帥(天皇)陛下の信倚に応え」と部隊に檄を飛ばしている。そんな司令官の高揚が全軍に伝播したのか、『関作命第178号』が第6軍の参謀に到着した際は、参謀長の藤本は一読するとポケットにねじ込み「当分のうちはこの電報は絶対に他に漏らしてはならぬ」と部下参謀に厳命している。 第6軍は、関東軍から派遣されていた島貫参謀の計画で、『関作命第178号』の発令前の9月4日に第2師団の第15旅団(旅団長片山省太郎少将)に997高地への夜襲を計画していたが、6日に一旦中止、しかし『関作命第178号』発令後の9月7日に、島貫が直接片山旅団の歩兵第16連隊(連隊長宮崎繁三郎大佐)に当初計画通り977高地への夜襲を命じた。宮崎連隊の夜襲時に977高地を防衛していたのは、狙撃兵603連隊とモンゴル兵の300名前後であったが、激戦の末、8日朝に977高地を占領、さらに9日には第16連隊第2大隊(大隊長尾ノ山少佐)が隣接する904高地を占領した。同日の日中にソ連軍は、第6戦車旅団の戦車150輌を含む大部隊で逆襲してきたため、尾ノ山大隊と激戦が繰り広げられた。尾ノ山は軍刀を片手に先頭で「一歩も退くな」と部下を激励していたが、宮崎が連隊主力を引き連れて戦場に到達する前に戦局がひっ迫したため、自ら軍刀と火炎瓶を持って突撃、大隊の機関銃中隊長浅井大尉もそれに続いた。尾ノ上は手にした軍刀でソ連兵をたちまち3人斬って捨てると、火炎瓶を投擲し敵戦車を擱座させている。しかし、2個目の火炎瓶を投げた直後に敵の機銃弾を胸、腹、頭に3発受けて戦死した。それを見ていた浅井は、ソ連兵2名を軍刀で斬殺しながら尾ノ上に接近しようとしたが敵弾に倒れた。まもなく宮崎率いる連隊主力が到着、ソ連軍は尾ノ上大隊が守る904高地を全力で攻撃していたので、宮崎は率いてきた第3大隊にソ連軍の側面を攻撃するよう命令、同時に野砲と速射砲で猛射を浴びせて次々と敵戦車を撃破した。第2大隊の奮戦で苦戦していたソ連軍は、第16連隊を圧倒的に上回る戦力でありながら、日本軍の増援の出現に驚いて、戦車の残骸20輌、多数の武器や遺棄死体を残して撤退していった。第16連隊は寡勢よく大敵を撃退したと旅団長の片山に称賛されたが、第2大隊は大隊長尾ノ上、中隊長浅井を含め168名の戦死者、第16連隊全体でも189名の戦死者を出すなど損害も大きかった。やがて停戦が決まると、宮崎は部隊の石工出身の兵士に命じ、十数個の石に部隊名と日付を刻み付けて、占領地の地中に埋め込んだが、これが後の国境画定交渉で日本側の主張が通る大きな要因となり、第16連隊は「ノモンハン唯一の勝利部隊」と称賛された。 また、11日には独立守備隊歩兵第16大隊(大隊長深野時之助中佐)と独立守備隊15大隊黒崎中隊の日本軍合計400名が吹雪の中、1031高地(ハルハ山。ソ連側の呼称はマナ山)に進攻し、1031高地を防衛していたモンゴル軍騎兵第8師団22連隊(600名)を白兵戦で潰走させて占領した。モンゴル軍が退却した後には、遺棄死体22体、砲4門、数十頭の軍馬が残されていた。ノモンハン戦最後の戦いでの日本軍の快勝劇であり、責任を問われモンゴル軍騎兵第8師団22連隊のバダルチ連隊長は処刑されている。その後、モンゴル軍の要請を受けたジューコフが奪還を準備していた9月15日に停戦となり、1031高地は最後まで日本軍が確保した。この1031高地占領のおかげで、停戦後の領土交渉の際に日本は、ソ連軍に占領されたハイラースティーン(ホルステン)川周辺の係争地とほぼ同じ面積 (500 km2) の広大な土地を確保することができた。
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