備中・美作の動乱とは? わかりやすく解説

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備中・美作の動乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/27 00:41 UTC 版)

楢崎元兼」の記事における「備中・美作の動乱」の解説

元亀4年1573年3月備中国阿賀郡新見一揆起こった三村元親はこの一揆鎮圧するために、輝元に援軍要請した。輝元は3月19日に元兼に書状送り出雲国伯耆国の兵を援軍として4月16日出陣させるよう依頼した検使を元兼とし、副将として元将が付けられた。 天正2年1574年)に毛利氏宇喜多直家結んだが、三村元親にとって宇喜多直家は父・家親の仇であり不倶戴天の敵であった。そのため元親は宇喜多直家を討つために織田信長と結び、毛利氏から離反した備中兵乱)。元兼は三村元親妹婿であったため、輝元は元兼が元親の離反応じないように、元兼の居城である月田城に木原左馬允入れて元兼を監視させた。その一方で、元兼の祖父・豊景と父・信景は輝元の命を受けて三村政親の守る備中国吉城や三村元範の守る城攻撃に加わって活躍している。 天正3年1575年)、元兼が預かり守っていた因幡国内の闕所山伏姿の不審な者が通行したため捕らえたところ、その者が懐中所持していた朱印状から、織田信長から美作国矢筈城主の草刈景継のもとへ派遣され密使大谷大谷吉継か)であることが判明同時に草刈景継逆意が明らかとなり、元兼はこの事を小早川隆景報告した。これによって同年4月27日草刈景継切腹し、景継の弟の草刈重継が跡を継いだ天正7年1579年)、宇喜多氏家臣江原親次城主務め美作国大寺城内で元兼へ内通する者が現れ城内木屋に火を懸けた。元兼は一番に駆けつけ吉川元春と共に大寺畑城を陥落させた。天正8年1580年2月15日美作高田城退城の際に、湯谷内の後家分100貫の地と浮米100石を輝元から申し付けられた。 天正10年1582年5月毛利元就の娘婿備中国日幡城を守っていた上原元将が、羽柴秀吉調略受けて毛利氏から離反。この報せ湯浅将宗から受けた吉川元春小早川隆景直ちに、元兼に備中国備後国の兵を率いさせて日幡城を攻撃させた。元兼は日幡城を攻め落とし元就三女にあたる元将の妻を吉田郡山城送り返した。輝元は大い感じ入り、元兼を「軍忠軍功比類無し」と称賛した山陰攻略の頃から楢崎氏は主に小早川隆景麾下戦っていたためか、天正13年1585年)の小早川家座配において「楢崎殿」と記されており、これは元兼あるいは父の信景を指すとされる

※この「備中・美作の動乱」の解説は、「楢崎元兼」の解説の一部です。
「備中・美作の動乱」を含む「楢崎元兼」の記事については、「楢崎元兼」の概要を参照ください。

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