備中・美作の動乱
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元亀4年(1573年)3月、備中国阿賀郡新見で一揆が起こった。三村元親はこの一揆を鎮圧するために、輝元に援軍を要請した。輝元は3月19日に元兼に書状を送り、出雲国と伯耆国の兵を援軍として4月16日に出陣させるよう依頼した。検使を元兼とし、副将として桂元将が付けられた。 天正2年(1574年)に毛利氏は宇喜多直家と結んだが、三村元親にとって宇喜多直家は父・家親の仇であり不倶戴天の敵であった。そのため元親は宇喜多直家を討つために織田信長と結び、毛利氏から離反した(備中兵乱)。元兼は三村元親の妹婿であったため、輝元は元兼が元親の離反に応じないように、元兼の居城である月田城に木原左馬允を入れて元兼を監視させた。その一方で、元兼の祖父・豊景と父・信景は輝元の命を受けて、三村政親の守る備中国吉城や三村元範の守る楪城攻撃に加わって活躍している。 天正3年(1575年)、元兼が預かり守っていた因幡国内の闕所を山伏姿の不審な者が通行したため捕らえたところ、その者が懐中に所持していた朱印状から、織田信長から美作国矢筈城主の草刈景継のもとへ派遣された密使・大谷慶松(大谷吉継か)であることが判明。同時に草刈景継の逆意が明らかとなり、元兼はこの事を小早川隆景へ報告した。これによって同年4月27日に草刈景継は切腹し、景継の弟の草刈重継が跡を継いだ。 天正7年(1579年)、宇喜多氏家臣の江原親次が城主を務める美作国の大寺畑城内で元兼へ内通する者が現れ、城内の木屋に火を懸けた。元兼は一番に駆けつけ、吉川元春らと共に大寺畑城を陥落させた。天正8年(1580年)2月15日、美作高田城退城の際に、湯谷の内の後家分100貫の地と浮米100石を輝元から申し付けられた。 天正10年(1582年)5月、毛利元就の娘婿で備中国日幡城を守っていた上原元将が、羽柴秀吉の調略を受けて毛利氏から離反。この報せを湯浅将宗から受けた吉川元春と小早川隆景は直ちに、元兼に備中国と備後国の兵を率いさせて日幡城を攻撃させた。元兼は日幡城を攻め落とし、元就の三女にあたる元将の妻を吉田郡山城へ送り返した。輝元は大いに感じ入り、元兼を「軍忠軍功比類無し」と称賛した。 山陰攻略の頃から楢崎氏は主に小早川隆景の麾下で戦っていたためか、天正13年(1585年)の小早川家の座配において「楢崎殿」と記されており、これは元兼あるいは父の信景を指すとされる。
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