別所長治・荒木村重の離反 /天正6年とは? わかりやすく解説

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別所長治・荒木村重の離反 /天正6年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 03:40 UTC 版)

中国攻め」の記事における「別所長治・荒木村重の離反 /天正6年」の解説

上月城の戦い」、「別所長治」、および「荒木村重」も参照 天正6年1578年1月毛利輝元大軍上月城派遣した毛利方では、先述のように3ルートかの上作戦策定していたが、上月城奪還から播磨進攻得策であると小早川隆景提案し山陰道担当吉川元春合意して合流した4月15日には輝元自身が軍を率いて備中松山城岡山県高梁市)に陣をかまえ、吉川元春小早川隆景の両将は、18日に6万余の兵を率いて上月城攻め、堀や柵を設けて重にも城を取り囲んだ秀吉からの急報受けた信長は、まず尼子救援のため摂津荒木村重送り、ついで滝川一益明智光秀増援して5月初旬にはみずからも出陣しようとしたが、佐久間信盛らに諫止され、ついで子息信忠・信雄・信孝を派遣した先発隊として重が到着すると、秀吉と共に上月城東方高倉山に陣をしいたが、地の利が悪い中で兵の数は約1万過ぎず毛利大軍に歯が立たなかった。この間秀吉信忠らも別所長治離反後述)のため撤退せざるをえなくなり7月5日半年にわたる毛利氏攻略によって上月城陥落した。これにより、信長同盟結んでいた尼子勝久尼子氏久自害山中幸盛捕らえられ、輝元の本営である備中松山城への護送中に処刑された(第二次上月城の戦い)。こうして、一時中国地方に覇をとなえた大族尼子氏再興願いむなしく滅んだ天正6年2月三木城別所長治本願寺毛利の側に寝返り同年10月には荒木村重も本願寺法主顕如盟約結んで信長離反した調略手腕短期間のうちに制した播磨であったが、長治離反におよんで同調者続出し秀吉敵国のなかに身を置く様相を呈する至った長治秀吉黒田孝高と共に中国進攻戦の先導役として最も期待した武将1人であった。だが『別所長治記によれば長治離反理由を、加古川城兵庫県加古川市)での軍議参席した長治名代意見が容れられなかったために、不満をもった家臣長治謀反すすめたからであると説明している。 これらの動き呼応して毛利水軍600余艘が本願寺への大量兵糧米積載して木津川河口向かった信長先の大敗経験学んで急遽志摩九鬼嘉隆に6艘、伊勢滝川一益に1艘の装甲ほどこした大型安宅船鉄甲船)を建造させ、7月和泉の堺に廻航させて海上封鎖にあたらせていた。鉄甲船には、大砲3門が搭載されていたという。11月には、織田水軍毛利水軍のあいだで海戦があり、九鬼嘉隆敵船引きつけ大将の船を大砲撃破する戦法毛利水軍敗走させ、毛利本願寺間の糧道遮断成功した第二次木津川口の戦い)。なお、これに先だつ3月13日には信長包囲網一画占めていた越後の上謙信春日山城新潟県上越市)で死去している。 いっぽう陸上では、3月末に別所長治とのあいだで三木合戦はじまり、長治呼応する播磨国内の諸勢力とのあいだで戦闘入った秀吉播磨屈指の名刹として知られていた書写山圓教寺姫路市)を陣所定め先に派遣されていた信忠らの援軍得てただちに三木城包囲4月には野口城戦い加古川市)で長井政重を、6月末には神吉城戦い加古川市)で神吉頼定を討った5月には尼子救援のため兵をいったん上月城差し向けて熊見川(千種川)では毛利勢と戦ったが、信長6月中国方面での戦況報告受けて上月城救援諦め三木城攻め優先すべきことを秀吉厳命した。 この間4月には、小寺政職小寺氏別所氏元来ともに赤松氏流れを汲む同族であると称して美嚢郡飾東郡印南郡などの一族呼集して御着城立てこもった小寺家家老であった黒田孝高家臣多く味方につけて秀吉したがい7月、政職はこれに敗れて逃走した上月落城後、秀吉8月櫛橋伊定とのあいだの志方城戦い加古川市)、10月梶原景行とのあいだで高砂城の戦い兵庫県高砂市)によって三木城孤立化をめざし、播磨の再平定努めた。この過程で、別所方についた姫路鶏足寺(現在は廃寺)は秀吉によって焼き討ちにあっている。 また、上月落城後の毛利氏では、小早川隆景がその勢いで山陽道東上する作戦主張し、鞆の義昭も本願寺支援のため三木城救援求めた。しかし、吉川元春但馬国人衆の入国要請理由但馬去ったため毛利勢の東進中止山陽方面からの進攻計画頓挫したが、播磨沖の制海権にぎっており、海上からの三木城への兵糧補給継続された。 こうした中の10月荒木村重離反するが、義昭摂津花隈城神戸市中央区)に重臣派遣して説得努めた結果であったという。摂津有数大名であった重は、明智光秀などと共に石山本願寺攻めの際には先鋒あたったが、大坂方面軍司令官地位佐久間信盛奪われ中国方面軍司令官地位もまた秀吉奪われ、さらに信長の側近長谷川秀一傲慢無礼態度に耐えかねて将来望み失っていたのではないか推定される秀吉は、重とは旧知の間である黒田孝高有岡城派遣して重の翻意促したが、逆に高が重に捕らえられ幽閉された。 また、それまで秀吉加勢して三木城攻略にあたっていた信忠は、急遽重への対応に迫られ摂津出向いたため、秀吉この後僅か8,000の手勢でほぼ互角の7,000人が守る三木城包囲しなければならなくなったこの年6月13日には陣中竹中重治失っていたので、秀吉にとっては軍監2人欠いて攻囲戦となった秀吉は城の周囲に柵や塀を幾重にも構築して城兵動き封じた上で30以上もあるという三木城支城各個撃破する戦略採用した重は毛利氏本願寺組んで謀反起こしたものの、毛利水軍木津川口での敗走と、それに続く11月16日高槻城大阪府高槻市)主高山右近11月24日茨木城大阪府茨木市)主中川清秀2人配下降伏によって孤立度合い深め有岡城籠城して織田軍に抗した有岡城の戦い)。

※この「別所長治・荒木村重の離反 /天正6年」の解説は、「中国攻め」の解説の一部です。
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