斬雷の闘将とは? わかりやすく解説

斬雷の闘将

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:10 UTC 版)

立花道雪」の記事における「斬雷の闘将」の解説

大友興廃記』によると、道若い頃35歳)に半身不随になったとされる時期に関してはおよそ天文17年1548年6月5日、道故郷北で炎天下の日、大木の下で涼んで昼寝をしていたが、その時急な夕立落ちかかった枕元立てかけていた千鳥太刀抜き合わせを斬って涼んでいたところを飛び退いた。これより以降、道左足不具になったが、勇力勝っていたので、常の者・達者な人より優れていた。千鳥太刀には、当たった印があったため、これより雷切号するようになった、とある。 しかし、一級史料の『戸次道雪譲状』によると、永禄5年1562年10月13日の対毛利軍浦の戦いに、毛利三人大将冷泉元豊赤川元徳赤川助右衛門)、桂元親(兵部大夫))を自ら討ち取った、『戸次軍談』や『九州諸将軍記』などの軍記物によると、永禄10年1567年8月14日秋月氏との甘水長谷山合戦瓜生野戦いとも)と休松の戦いでは「自ら太刀振るい、よき武者7人を斬り倒し騎馬敵陣乗り込んで戦って、敵から「鬼道」と呼ばれる。」という記録もあり、『浅川聞書』によると永禄11年1568年7月4日立花鑑載討伐立花山崖下戦いにも自分取って家臣と共に奮戦した、『筑前国続風土記』にも永禄12年1569年5月18日多々良浜の戦い自分で馬を乗出し敵の中へ縦横に突て廻りける、この年代の資料にも輿に乗っていたという記述無く、「若い頃落雷によって下半身不随になった」というのが創作なのか、文献誇張創作があるのかなど真偽わかっていない。 こうして障害者となったであるが、晩年の際、家臣手輿を担がせて自らは輿に座り、2尺7寸(約82センチ)ばかりの刀(雷切とは別の刀・備前清光という刀であった)と鉄砲1挺、それに腕貫をつけた長さ3尺(約1メートルの手棒を常に側に置いた手輿周りには長い刀を持った100人ばかりの定衆と名付けた若者が、徒歩固めていた。戦いが始まると、その若者に輿を担がせ、敵が間近になる手棒手輿の縁を叩いて自ら「えいとうえいとう」と大声音頭をとり、敵陣突っ込ませた。元亀元年1570年今山の戦い従軍し佐賀城包囲する4月23日局地戦巨勢若宮戦いで龍造寺隆信鍋島直茂交戦した際、戦いで初めて輿に乗った記述がある。また、戸次立花家相関史料や『筑前国続風土記』によると、天正7年1579年8月14日に、筑前大友木付実の柑子岳城を兵糧救援帰路の際、原田氏との第三次松原戦いには、道は正式的に輿に乗って後方督戦した。この時はおよそ66歳の老齢であった。そして天正12年1584年8月18日筑後遠征の際、輿に乗ったま行軍していた記述がある。

※この「斬雷の闘将」の解説は、「立花道雪」の解説の一部です。
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