筑後遠征
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天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち死にしたことにより、島津方の圧力が強まる中、紹運は立花道雪や朽網鑑康と共に筑後の支配を回復すべく戦っていた。3月、豊後国の大友軍は黒木家永の筑後猫尾城を攻撃したが、城方の奮戦や龍造寺方の援軍・土肥家実(土肥出雲守)を前に戦線は膠着した。8月18日、道雪と紹運は大友義統の出兵要請を受け、両家合わせておよそ5,000の兵で出陣し、勇ましい強行軍の態勢で敵領地の筑後川や道路が未整備の鷹取山、耳納連山の高峰や九十九折など山険難所を越え、鉄砲隊で埋伏していた秋月、筑紫、草野、星野連合軍を蹴散らし(田主丸町・片瀬、恵利渡口・石垣表の戦い)、ただ1日で筑前から筑後まで15里(約60キロ)の行程を走って、8月19日夕方、猫尾城の支城・高牟礼城下に到着した。道雪はさっそく城将・椿原氏部を調略し、24日に高牟礼城は開城降服して、土肥家実も佐賀へ戻った。つづいて犬尾城の川崎重高(一説には河崎鎮堯)も降り、25日には川崎の権現山に陣替えしたが、筑後高良山座主・丹波良寛や大祝保真、宗崎孝直、甘木家長、稲員安守らも大友軍に加わった。 28日には道雪が一族の立花鎮実(戸次右衛門大夫)を将として800の別働隊を率いて坂東寺に入り城島城を攻めた。立花勢は鎮実以下、竹迫鑑種(竹迫日向守)と安倍親常(安倍六弥太)らが勇戦して数人を討ち取ったが、城主西牟田家親と西牟田家和兄弟の率いる城兵300騎の激しい抵抗に遭った。立花勢は劣勢で、道雪は味方の危機を救うため増援部隊を送ったが、そこへ龍造寺政家の援兵が到着したので、100余りの死傷者を出して髙良山へ撤退した。立花勢の大将、戸次右衛門太夫もこの時戦死したと多くの書物が記しているが、異説もある。 道雪と紹運の本隊は酒見・榎津・貝津などの集落を焼き払って、ついに大友諸将と軍議をひらいて猫尾城の総攻撃を決めて、9月5日に落城させた。 9月8日から11日まで、蒲池鎮運の山下城や谷川城、辺春城、兼松城、山崎城など筑後諸城を降伏、攻落した。この間にもう一度坂東寺に陣を取り、豊後大友軍の総大将・田原親家と軍議して三潴郡の西牟田村・酒見村・榎津近辺数百の民家を焼き払い、9日に柳川城周辺の山門郡内の龍造寺方の諸城を攻めて、10日に上瀬高・下瀬高・鷹尾村を焼き払って、城主・田尻鑑種が不在であった鷹尾城も占領した。 龍造寺家晴の柳川城は九州有数の難攻の水城であり、その支城、百武賢兼の妻・圓久尼が鎮守する蒲船津・百武城も同じ水路が入りくみ沼地が自然の要害となっていた難攻の城で、さすがの道雪、紹運も攻略の進展ができなかった。そのため、10月3日には筑後高良山座主・丹波良寛の勧めもあって、高良山に引揚げ、軍勢を転じて久留米城、安武城、吉木竹井城を攻落した。10月4日、両軍は草野鎮永の発心岳城を進攻し、のち星野吉実の鷹取城・福丸城・星野城、そして11月14日に問註所康純の井上城を攻めて、秋月領の甘木辺りまで焼き討ちした。その際、田原親家は両将の戦功を嫉み、更に年の暮れが迫っていたので、豊後に引揚げた。残された道雪、紹運や朽網鑑康、志賀親守らは、高良山を中心に筑後川に沿った柳坂から北野に布陣したまま、年の越えを迎える。 天正13年(1585年)2月上旬から4月23日まで龍造寺政家、龍造寺家晴、鍋島直茂、江上家種、後藤家信、筑紫広門、波多親、草野鎮永、星野吉実、秋月種実、問註所鑑景、城井鎮房、長野種信、千手氏など肥前、筑前、筑後、豊前連合軍およそ30,000余の大軍と小森野、十三部、千本杉、祇園原など(総じて筒川合戦や久留米合戦) で数々の激戦があったが、道雪と紹運、鑑康、良寬ら大友軍は9,800の劣勢ながら、いずれも見事で兵法、戦術や兵器、陣形を活用してしばしば局地戦で敵大軍を撃破し、討ち取った雑兵数百及び兜首計約四百七十の戦果を挙げたが、龍造寺側に決定的な打撃を与えることができなかった。 天正13年(1585年)9月、道雪が病没。これを好機と見た筑紫広門に宝満城を奪取されたため、紹運は筑後遠征を中止して宝満城を奪回する。のちに広門と和睦し、広門の娘・加袮を次男・統増の正室に迎えた。
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