筑後河崎氏とは? わかりやすく解説

筑後河崎氏 (調一党)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/12 09:26 UTC 版)

河崎氏」の記事における「筑後河崎氏 (調一党)」の解説

桓武平氏流とは別系の、筑後国拠点持った一族で、筑後十五城一つ数えられる同じく筑後十五城星野氏黒木氏と同じく古代調氏後胤黒木大蔵大輔源助能の末裔とされている。一説によれば、助能は摂津源氏末裔または後鳥羽天皇落胤ともされる人物である。その助能の長男である貞宗現在の八女市北部の地(八女市山内城山あたり)を領し犬尾城(のち生駒(野)城)を居城として河崎氏称したとされている。 戦国期みられる河崎鑑実(あきざね)や河崎鎮堯(しげたか、別名:河崎鎮則(しげのり)、鑑実の従兄弟・能堯の子)が大友義鑑・義鎮(宗麟)から1字を賜っていることから、大友氏臣従していたもの思われる河崎氏当主となった出羽守鎮堯は、天正七年1579年)、耳川の戦いによる大友氏衰退好機として筑後進出してきた龍造寺隆信居城生駒野城(伊駒野城攻められ降伏。鎮堯は命からがらに何とか城から落ち延びたが、この時に鎮堯をかばった多く家臣を喪った。以降隆信代官として新たに筑後十郡を支配することとなった鍋島飛騨守信昌(のちの信生、直茂)に臣従することになる。のちに豊臣秀吉による九州征伐島津氏征伐が行われ、この際鍋島直茂早くから秀吉に誼を通じて島津氏恭順するような態度見せながら裏ではこの征伐促した一方で鎮堯は秀吉に参礼しなかったために除封処分受けてしまう(没収され領地筑紫広門のものとなった)が、秀吉より領土安堵された直茂の保護引き続き受け、子孫鍋島氏仕えて佐賀藩士として続いた

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