家臣への対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:10 UTC 版)
他人への配慮を欠かさなかった事でも知られる。『常山紀談』では道雪の言葉として「武士に弱い者はいない。もし弱い者がいれば、その人が悪いのではなく、大将が励まさない罪による。我が配下の武士は言うに及ばず。下部に至っても武功の無い者はいない。他の家にあって後れをとる武士があらば、我が方に来て仕えるがよい。見違えるような優れ者にしてやろう」とある。 このような考えのもと、道雪の家臣に対する逸話は非常に多い。武功の無い武士がいると「運不運が武功にはあるもの。そなたが弱い者でない事は、我が見定めている。明日の戦いに出る際、そそのかされて抜け駆けなどして討死してはならぬ。それは不忠というものぞ。身を全うしてこの道雪の行く末を見よ。お前たちを打ち連れているからこそ、かくのように年老いても敵の真ん中に出られ、怯んだ様子も見せないのだ」と言ってその武士と酒を酌み交わし、ある時は武具を与えたりもした。このように配慮を欠かさないから、道雪の配下は次の戦いでは他に遅れまいとして勇み、その武者振りがいいと「あの者を見よ。この道雪の睨んだ目に狂いは無かった」と周囲にもわかるように賞賛・激励した。このため士卒は道雪のために命を惜しまずに働いた。ある合戦で道雪の軍は苦戦した、そのため「我を敵の中に担ぎ入れよ。命が欲しければ、その後で逃げよ」と道雪が下知した。しかし、家臣たちは日ごろの道雪への感謝から、そのようなことをせずに奮起し、敵に対して何度も槍を交えて、遂に追い返したという。 客を招いての酒の席で部下が粗相をした際、「今、私の部下が失礼をしたがこの者は戦場では何人分もの働きをする。特に槍の扱いなどは当家一であろう」と客に話し部下に恥をかかせなかった。他にもある家臣が道雪の侍女に密通して問題になったが、肝心の道雪は「若いのだから当たり前だ。色恋に迷ったからと言って誅殺するには及ばぬ。人の上に立って、君と仰がれる者が、ちょっとしたことで人を殺せば、人は君に背くもととなる。国の大法を犯したのとは違う」と述べて笑った。この言葉を聞いた家臣は、後に道雪を守りながら戦死したと伝わる。 重臣であった薦野増時は恩賞として道雪の隣に墓所を置き、死後も道雪の傍にあることを望んで許されていた。関ヶ原の戦いの戦後処理として立花氏の改易に伴い、黒田家臣となった増時ではあったが、この許しを得ていたことを生涯忘れず、死後に道雪と同じく梅岳寺に葬られた。 軍律に関しては非常に厳しく、晩年の筑後遠征の際、筑前川原崎で龍造寺氏と対陣中に越年することになった時、一部の家臣が無断で陣地を離れて我が家へ戻った事を知った道雪は、直ちに追っ手を差し向け、その時追っ手に家へ帰った家臣のみならず、その親をも殺すよう命じた。家老たちが親までも殺すことはないだろうと諫めても「大事な戦場の持ち場から逃げ帰ってくる息子を追い返さない限り、その親も同罪だ」と言って取り合わなかったという。
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家臣への対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 12:56 UTC 版)
他家に仕官しようと暇乞いをする者があった時は、翌日に茶会を催し、その座で太刀を与え、もし仕官先が思わしくなかった時には、再仕官してもよいことを告げた。実際に立ち戻った家臣には、もとの知行高を保証したとされる(『古今記聞』)。 高虎が伏見に滞在中、遊びで家を破産させた5人の家臣が出たとの報告を受ける。5人のうち3人が博打、2人は遊女通いで金を使い果たし、自分の差料・領地・屋敷を質に入れている始末だった。これに対し高虎は、遊女につぎ込んだ者は追放処分とし、博打の者は減知の上百日間の閉門として家中に残した。この処分について聞いた家臣に対して「女好きは物の役に立たないが、博打好きな奴は相手に勝とうとする気概がある」と言い、家臣達は高虎の思慮深さに感心したという。
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