家臣の心配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:28 UTC 版)
元治元年(1864年)5月頃、池田屋事件直前の時期、長州勢が大勢京に入り込み不穏な空気の中であった。その頃長い病に伏せていた容保は、御所近くの浄華院にて守護し奉っていたが、黒谷の宿営に帰り保養することを許された。しかし浮浪の徒らがこのことを知って、途中で襲撃するとの報が入った。神保内蔵助など重臣たちは大いに心配し、途上の従者を増やそうとしたが、容保は「元より、自分の仕事は私心をもってのことではなく、天朝・幕府の命を奉じてのことなれば、道理に基づいてのことであり、何も心配する必要はない。万一暴発人が現れたとしても、それもまた天命。人数を増やしてもそれほど変わるまい。決してこれらは心配せず、人数など増やさないように」として許さなかった。重臣らはやむをえず、容保が戻る道筋の所々に家来を手配し、目に触れぬよう忍ばせ容保を守った。こうして見守ると容保は、その言葉のごとく断然とした振る舞いで少しも懸念するところが見えず、家臣たちは「まことに恐れ入った」と言っている。また小姓であった浅羽忠之助などは道中の道筋にて罷り出て、「久しぶりのお戻りにつき、御家来共にて有り難くお迎えに来ました」などと言上し、容保を守りに行った。 明治維新後、旧臣手代木勝任が高須に配流されたときには、その身を思った歌を詠んでいる。手代木は赦免後に新政府への出仕を求められるが、その際に容保の許可を得ようと東京で面会している。容保はこれを快諾し、前途を祝した歌を贈っている。
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