家臣の謀反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 16:10 UTC 版)
永正6年(1509年)、那須資房が、塩谷家臣である大貫石見守、印南修理進、油井筑後守と三者の一族に通じ謀反させ、孝綱を討とうとする謀略を企てる。しかし孝綱側はこれをいち早く察知し、孝綱はこれを重く罰しようとするが、家臣の安藤光忠の進言により、三者とその一門計13名に二度と謀反を起こさないよう起請文を書かせ、木幡神社に奉納させ、これを許した。 孝綱が塩谷家の家督を継いだばかりの頃は、家臣の中でこれに反発する者が多かったが、この事件をきっかけに塩谷家臣団は、孝綱の下にまとまっていった。
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