家臣の扱い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)
明智光秀や細川藤孝のようなごく一部の例外を除けば、信長は尾張出身の譜代ばかりを重要な地位に登用した。 これら譜代の人々で信長を裏切った者はいない一方で、松永久秀・荒木村重・明智光秀といった「外様」に当たる人々はやがて信長に反逆している。池上裕子は、久秀や光秀らの造反の要因の一つとして、信長の譜代重用に対する反発を挙げている。 また、松永久秀、別所長治、荒木村重らの反乱は、信長の苛烈ともされる性格に起因しているという説もある。己を恃むところが多く、実に気まぐれであり性格は猜疑心が強く執念深く、それが多くの謀反につながったと指摘する研究者もいる。前述のフロイスの人物評に見られるように、家臣たちは信長への絶対服従を求められ、異議を唱えることも許されなかったともされる。 他方で、こうした見方には異論も存在する。神田千里によれば、信長は家臣の意見をある程度までは重んじ、また家臣の取扱いにも慎重だった。前者について神田はいくつかの例を挙げているが、例えば、中国攻略における羽柴秀吉の独断での決定を信長は追認しているし、また、佐久間信盛の異議に従って武将の三ヶ頼連を赦免している。従来は家臣に絶対服従を求めたものだと理解されていた「越前国掟」という文書も、信長の意見が間違っていれば、憚ることなく指摘すべきだという文言がある。そして、家臣の意が妥当なものなら、信長はそれを採用することを約束している。当時の戦国大名は家臣たちの合議を重んじていたが、信長も例外ではなく、家中の合議を必要なものだと考えていたという。 信長の家臣との関係については、しばしば譜代の重臣の佐久間信盛が追放されたことが注目される。この追放は、一般的には、信長は能力の足りない家臣を容赦なく追い出した事件だと評価されている。例えば、池上裕子は「譜代・重臣であっても(中略)切り捨てる非情さ」の現れだと表現している。しかし、神田によれば、追放前に信盛には名誉回復の機会が与えられていることや、信盛が高野山で平穏に余生を送ったと考えられることなどからすると、信長の対応は冷酷とまでは言えないという。そして、信長が家臣の扱いに気を配ったことは、信長が信盛追放の理由の一つとして信盛家中に対する過大な負担を挙げていることからも裏付けられるという。 元々重臣を軽んじはいなかったが、重臣を各地の前線や領国に配置したこともあり、安土城築城からは年始挨拶に集合する正月儀礼を2回しか行わなかった。さらに、重臣との合議機関もなく、信長の近侍衆を通じてしか、意思疎通もしにくく、また家臣が裏切るという恐れを考えず起請文を取り交わさず妻子を人質に取っていず家臣団への安定策は不得手だった。これが、重臣の裏切りや政権破綻の原因になったと指摘されている。
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