家臣の人数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:29 UTC 版)
米沢藩上杉家は他の藩と比較して下級武士の数が圧倒的に多かった。これは関ヶ原の戦いに敗れて所領を4分の1に削減されたにも関わらず、家臣に暇を出すことをせず、そのまま米沢に連れて来たからである。必然的に家臣ひとり当たりの知行高は低く抑えられ、のちのち上杉家そのものだけでなく家臣たちひとりひとりの極端な経済的困窮につながった。大坂の陣では上杉軍は2万の軍を率いて出陣しているが、本来は30万石であるから動員できる兵力は多く見ても7500人から9000人(そもそも1万石の動員数が250人から300人)であり、上杉家は倍以上の兵を動員している勘定になる。同じ山形県内にあった庄内藩酒井家14万石の家臣は約1900人であるが、米沢藩は約5000人という数から比較しても、家臣の極端な大人数が財政難の原因のひとつとなったことは確かである。なお、上杉家の上級家臣(高家衆・奉行・家老・分領家)は95人で全体のおよそ2パーセント、中級家臣(上杉謙信の旗本だった馬廻組・上杉景勝の旗本だった五十騎組・直江兼続の与板衆)が930人で全体のおよそ19パーセント、残りが下級家臣でおよそ3900人であった。
※この「家臣の人数」の解説は、「米沢藩」の解説の一部です。
「家臣の人数」を含む「米沢藩」の記事については、「米沢藩」の概要を参照ください。
- 家臣の人数のページへのリンク