家臣の収賄事件とは? わかりやすく解説

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家臣の収賄事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/19 07:06 UTC 版)

水野忠通」の記事における「家臣の収賄事件」の解説

寛政3年1791年6月20日江戸から派遣され目付井上正賢とその配下徒目付小人目付長崎到着し、2ヵ月後の8月20日出立した佐賀藩聞役竹野喜兵衛水野目付派遣理由内々尋ねたところ、昨年からの水野長崎での政策承服できないとして、江戸へ上って訴える者が続出したためとの答えだった。そして昨年から密貿易などが発生しており、水野家老認められた以上の銀を受け取っているという話もあって、その監査目的であったという(『泰国院様御年賦地取』)。翌年1792年)には、江戸戻った水野閉門言い渡された。 長崎事件記した犯科帳によればこの事件は、 寛政2年12月に「半減商売令」第二令を正確に翻訳しなかったことで5年蟄居となったオランダ通詞たちの宥免のため、他の通詞たちが賄賂贈った寛政2年キリシタン嫌疑かかった浦上村農民釈放願い 広東人参の不正取り扱い長崎から追放されていた両国屋源右衛門呼び戻し願い 広東人参取り扱い求め賄賂工作 の4件に関わる贈収賄で、71名が処分された(寛政5年1793年3月13日条の判例)。処罰された者の中には水野家臣立岩宗次郎佐藤万蔵のほか、寛政2年長崎奉行支配となった役人吉村九郎右衛門松下太次平もいた。オランダ通詞宥免願いでは、賄賂授受し100人以上の関係者取り調べを受け、処罰された。そして本来全く別の4つ事件関係者が、賄賂金調達のために相互に資金融通行なっていたことも判明した。 『通航一覧』や『寛政重修諸家譜』には、長崎貿易通商改正の時期別して不行届であり、落度大きいとして水野閉門となった。『寛政重修諸家譜』には、かねてから収賄に関する風聞や、封書による訴えもあったと記されており、前年長崎在勤交代した同僚長崎奉行永井直廉そのこと知らされていたという。 水野閉門となったことで長崎在任奉行不在となった。そのため、寛政4年6月後任平賀貞愛着任するまでの間、長崎に関する問題久世広民代理として臨時担当することになった

※この「家臣の収賄事件」の解説は、「水野忠通」の解説の一部です。
「家臣の収賄事件」を含む「水野忠通」の記事については、「水野忠通」の概要を参照ください。

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