家臣の収賄事件
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寛政3年(1791年)6月20日、江戸から派遣された目付・井上正賢とその配下の徒目付や小人目付が長崎に到着し、2ヵ月後の8月20日に出立した。佐賀藩聞役の竹野喜兵衛が水野に目付派遣の理由を内々で尋ねたところ、昨年からの水野の長崎での政策に承服できないとして、江戸へ上って訴える者が続出したためとの答えだった。そして昨年から密貿易などが発生しており、水野の家老が認められた以上の銀を受け取っているという話もあって、その監査も目的であったという(『泰国院様御年賦地取』)。翌年(1792年)には、江戸に戻った水野は閉門を言い渡された。 長崎の事件を記した『犯科帳』によればこの事件は、 寛政2年12月に「半減商売令」第二令を正確に翻訳しなかったことで5年の蟄居となったオランダ通詞たちの宥免のため、他の通詞たちが賄賂を贈った件 寛政2年にキリシタンの嫌疑のかかった浦上村の農民の釈放願い 広東人参の不正取り扱いで長崎から追放されていた両国屋源右衛門の呼び戻し願い 広東人参の取り扱いを求める賄賂工作 の4件に関わる贈収賄で、71名が処分された(寛政5年(1793年)3月13日条の判例)。処罰された者の中には、水野の家臣の立岩宗次郎や佐藤万蔵のほか、寛政2年に長崎奉行直支配となった役人の吉村九郎右衛門と松下太次平もいた。オランダ通詞の宥免願いでは、賄賂を授受した100人以上の関係者が取り調べを受け、処罰された。そして本来全く別の4つの事件の関係者が、賄賂金の調達のために相互に資金の融通を行なっていたことも判明した。 『通航一覧』や『寛政重修諸家譜』には、長崎貿易の通商改正の時期に別して不行届であり、落度は大きいとして水野は閉門となった。『寛政重修諸家譜』には、かねてから収賄に関する風聞や、封書による訴えもあったと記されており、前年長崎在勤を交代した同僚の長崎奉行・永井直廉もそのことを知らされていたという。 水野が閉門となったことで長崎は在任奉行が不在となった。そのため、寛政4年6月に後任の平賀貞愛が着任するまでの間、長崎に関する問題は久世広民が代理として臨時に担当することになった。
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