家臣の内紛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 14:33 UTC 版)
永禄2年の5月~8月、人吉奉行の東長兄と丸目頼美の不和が家中を二分する内紛に発展した。発端は頼美の母の侍婢を巡った色恋沙汰であったが、頼房を擁立した長兄に対し、頼美は湯前城主東直政、日向椎葉の大河内城主那須武宗、小崎城主那須武晴、向山城主那須武綱らに支援を求めて、獺野原で戦って敗北。頼美は日向に逃亡して伊東義祐に仕えた。 詳細は「獺野原の戦い」を参照 永禄3年(1560年)11月28日、頼房は相良義滋の四女・千代菊との婚儀を八代で執り行った。翌年より頼房は遠江守を称するようになった。 永禄5年(1562年)、伊東義祐に領地を簒奪された北原氏のために島津氏と盟約し、島津貴久と北郷時久と協力して北原氏の旧領回復のために派兵した。相良軍は日向・馬関田城まで兵を抜き北原兼親を飯野城に入れることに成功、更に島津氏・北郷氏と相互扶助を約し、白鳥神社にて起請文を取り交わした。しかし、翌永禄6年(1563年)に兼親の叔父・左衛門尉が、伊東氏と相良氏を盟約させ飯野から島津氏を追い出そうと謀り、また東郷相模守の仲介を得て、同年の4月14日相良氏は伊東氏と共に島津氏の大明神城(大明司塁)を落とした。これにより島津氏との関係は悪化した。
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