永禄2年の戦い
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大友義鎮は、永禄2年(1559年)6月26日、将軍足利義輝から豊前・筑前・筑後の守護職に任じられ、豊前・筑前攻略に着手した。 8月22日、田原親宏、田原親賢や佐田隆居ら大友勢豊前方面軍は、毛利元就の調略に応じ挙兵した豊前国人・西郷隆頼や野仲鎭兼らの不動岳城、西郷城を攻略した。この元就の調略を響応するように門司城、花尾城、香春岳城も浪人一揆で占拠せれ挙兵した。義鎮は、田原親宏に、不動岳城攻略を賞しつつ、「しかれども門司・花尾・香春岳未だ落去せず、残党足を抜かないよう討ち果たすべし」との書状を送っている。この頃の怒留湯直方は大友勢の立花鑑載、麻生鎭氏(宗像鎮氏)らと共に宗像領・許斐城、蔦ヶ嶽、白山城などを攻略するため筑前に9月25日まで出陣するので、門司城を易々占拠されたと考えられる。 9月16日、大友義鎮は親宏、親賢、隆居らに命じて門司城を攻撃させる。これに対し、元就は嫡男の毛利隆元・三男の小早川隆景らを門司城へ後詰に向かわせた。隆景は児玉就方に海上封鎖を命じる一方、門司と小倉の間に乃美宗勝の軍勢を上陸させて大友勢を攻撃し、さらに水軍を展開して大友軍の退路を断つなどしたため、大友方は退却を余儀なくされた。26日、軍勢を整えた親宏、親賢、隆居ら大友軍は門司城を攻めて、隆居が本丸一番乗りを果たし、田原親賢から感状を受けた。また、毛利方の門司城督・波多野興滋や波多野兵庫、須子大蔵丞らを討ち取った。 しかし、『吉田物語』によれば、毛利勢は、強力な水軍をもって大友勢の背後を衝き、これを退却させた。『萩藩閥閲録久芳文書』によれば、毛利隆元が10月3日、門司城の普請に尽力した久芳賢重に感状を授けていることから、即日または数日内に門司城の取り返しに成功したと考えられる。 『吉田物語』には、毛利氏の勝利には、小早川隆景の将で、村上水軍と姻戚関係のあった浦兵部宗勝(乃美宗勝)の活躍が大きかったことが描かれている。だが、冷泉五郎元豊は、『立花文書』によって永禄五年十月十三日門司柳浦に討死したことが判明するので、『吉田物語』の記述に矛盾がある。 永禄二年九月廿六日に、豊後衆大勢門司の城へ取掛候。[中略]隆元公は防府迄御出馬遊ばされ、小早川殿御先手にて門司の城へ後詰有り、後本手よりは、冷泉五郎元豊、隆景よりは浦兵部宗勝、御先手仰せ付けられ候。海上の警護は、児玉内蔵丞、孰(いずれ)も御付の衆歴々これ有り。御先手の両将、御本陣へ召寄せられ、明日は門司と小倉の中間へ打上り、一戦仕るべきの旨、隆景仰せ渡され候。然れども宗勝敵陣の様子を見きり、元豊討死仕る。大将討死候に付き、手負死人余多(あまた)これ有り候て、漸く引取申候。其翌朝宗勝、船にて具足を著し、上帯の端を結び、各へも討死の覚悟に候。[中略]宗勝もものはづれ三ヶ所手負候へ共、浅手故、逃る敵を追詰(おいつめ)、数百人討取候。[中略]其後豊後衆、在陣仕り罷居(まかりおり)候に付、豊前中津の浦々へ、浦兵部、児玉内蔵丞、其外警護衆遣わされ、豊後への通路を留られ候に付、長陣相成らず敵悉(ことごと)く退散仕に付、門司の御仕置(おしおき)等仰せ付けられ、小早川殿御帰陣候。隆元公も防府より御馬を入れられ候事。[後略] — 『吉田物語』巻7
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