永禄2年の戦いとは? わかりやすく解説

永禄2年の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 08:24 UTC 版)

門司城の戦い」の記事における「永禄2年の戦い」の解説

大友義鎮は、永禄2年1559年6月26日将軍足利義輝から豊前筑前筑後守護職任じられ豊前筑前攻略着手した8月22日田原親宏田原親賢佐田隆居大友豊前方面軍は、毛利元就調略応じ挙兵し豊前国人・西郷隆頼や野仲鎭兼らの不動岳城、西郷城を攻略した。この元就調略響応するように門司城花尾城香春岳城浪人一揆占拠せれ挙兵した。義鎮は、田原親宏に、不動城攻略を賞しつつ、「しかれども門司花尾香春岳未だ落去せず、残党足を抜かないよう討ち果たすべし」との書状送っている。この頃の怒留湯直方大友勢の立花鑑載麻生鎭氏(宗像鎮氏)らと共に宗像領・許斐城、ヶ嶽、白山城などを攻略するため筑前9月25日まで出陣するので、門司城易々占拠されたと考えられる9月16日大友義鎮は親宏、親賢、隆居らに命じて門司城攻撃させる。これに対し元就嫡男毛利隆元三男小早川隆景らを門司城後詰に向かわせた。隆景は児玉就方海上封鎖命じ一方門司小倉の間に乃美宗勝軍勢上陸させて大友勢を攻撃し、さらに水軍展開して大友軍の退路を断つなどしたため大友方は退却余儀なくされた。26日軍勢整えた親宏、親賢、隆居ら大友軍は門司城攻めて、隆居が本丸一番乗り果たし田原親賢から感状受けたまた、毛利方の門司城督・波多野興滋波多野兵庫、須子大蔵丞らを討ち取った。 しかし、『吉田物語によれば毛利勢は、強力な水軍をもって大友勢の背後を衝き、これを退却させた。『萩藩閥閲録久芳文書によれば毛利隆元10月3日門司城普請尽力した芳賢重に感状授けていることから、即日または数日内に門司城取り返し成功した考えられる。 『吉田物語』には、毛利氏勝利には、小早川隆景の将で、村上水軍姻戚関係のあった浦兵部宗勝(乃美宗勝)の活躍大きかったことが描かれている。だが、冷泉五郎元豊は、『立花文書』によって永禄五年十月十三日門司浦に討死したことが判明するので、『吉田物語』の記述矛盾がある。 永禄二年九月廿六日に、豊後大勢門司の城へ取掛候。[中略]隆元公は防府御出馬遊ばされ小早川殿御先手にて門司の城へ後詰有り、後本手よりは、冷泉五郎元豊、隆景よりは浦兵部宗勝、御先手仰せ付けられ候。海上警護は、児玉内蔵丞、孰(いずれ)も御付の衆歴々これ有り御先手の両将、御本陣召寄せられ、明日門司小倉中間打上り、一戦仕るべきの旨、隆景仰渡され候。然れども宗勝敵陣様子見きり元豊討死仕る大将討死候に付き、手負死人余多(あまた)これ有り候て、漸く引取申候。其翌朝宗勝、船にて具足著し上帯の端を結び、各へも討死覚悟に候。[中略]宗勝もものはづれ三ヶ所手負候へ共、浅手故、逃る敵を追詰(おいつめ)、数百人討取候。[中略]其後豊後衆、在陣仕り罷居(まかりおり)候に付、豊前中津の浦々へ、浦兵部児玉内蔵丞、其外警護遣わされ豊後への通路を留られ候に付、長陣相成らず敵悉(ことごと)く退散仕に付、門司御仕置おしおき)等仰せ付けられ小早川殿御帰陣候。隆元公も防府より御馬入れられ候事。[後略] — 『吉田物語』巻7

※この「永禄2年の戦い」の解説は、「門司城の戦い」の解説の一部です。
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