永禄11年の上洛戦とは? わかりやすく解説

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永禄11年の上洛戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 06:29 UTC 版)

永禄の変」の記事における「永禄11年の上洛戦」の解説

永禄11年1568年4月足利義秋越前一乗谷において元服し、名を義昭改めた。しかし、朝倉義景一向に上洛への動きを示さなかった。頼みとする織田信長に対してこのころ義栄陣営三好長逸からも接触図られていたが、義昭信長交渉重ねてその迎え取り付け7月25日美濃立政寺移った8月7日近江佐和山入った信長7日間滞在し使者遣わして六角義賢上洛への協力求めるが交渉決裂した一方で8月17日には三好三人衆近江訪れ義賢と「天下の儀談合」に及んだ上洛には六角氏との対戦不可避となった信長は、6万といわれる軍勢率いて9月7日岐阜進発し、12日箕作城13日六角氏本城観音寺城攻略し予想外速さ江南手中に収めた。 いっぽう大和からいったん退いていた三好方は態勢立て直し松永久秀討伐するべく5月大和侵攻再開していた。三好康長松永方重要拠点信貴山城包囲して6月29日開城させ、9月4日には筒井順慶とともに東大寺攻め寄せる織田軍が近江侵攻した後の9月10日石成友通坂本進出したものの翌日には帰還している。また、松永方が織田軍に呼応するのを警戒し16日三好宗渭らが奈良西京派遣されるこのように松永方との対戦注力していた三好勢は、兵力結集して織田軍の進撃阻止することができず、信長義昭奉じて9月26日山城国入った織田軍はそのまま三好勢討伐向かい勝龍寺城籠る石成友通29日に逐い落とす。山崎布陣していた三好勢は、27日織田先鋒進撃してくる前に退散していた。摂津入った先鋒畿内における三好氏拠点であった芥川山城周辺焼き討ちし、三好長逸が城を捨てて落ち延びた後、30日義昭入城した池田城攻囲された池田勝正激しく抵抗したが力尽きて降伏伊丹城伊丹親興降伏する一方越水城篠原長房河内高屋城三好康長三好宗渭戦わず退去した。篠原三人衆らはすみやかに撤兵したためその勢力温存され、この後義昭陣営との抗争が続くことになるが、足利義栄将軍となりながら上洛を果たさぬまま、この間9月30日病死した(義栄の死去日ついては諸説あり、将軍職解任されたのか死去によって将軍職空席になったのかは不明である。三好長治伴われ阿波下り10月8日あるいは20日没したともいう)。 10月4日摂津芥川山城義昭のもとに三好義継松永久秀池田勝正畠山氏らが出仕し、彼らと信長義昭奉じる体制成立する大和残っていた松永久通10月8日筒井城攻め落とし筒井順慶追い出した。さらに大和一国支配認められ松永久秀義昭家臣細川藤孝和田惟政信長家臣佐久間信盛率い軍勢10日大和入り諸城攻略していった松永方は信貴山城奪還した

※この「永禄11年の上洛戦」の解説は、「永禄の変」の解説の一部です。
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