永禄11年の上洛戦
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永禄11年(1568年)4月、足利義秋は越前一乗谷において元服し、名を義昭と改めた。しかし、朝倉義景は一向に上洛への動きを示さなかった。頼みとする織田信長に対してはこのころ義栄陣営の三好長逸からも接触が図られていたが、義昭は信長と交渉を重ねてその迎えを取り付け、7月25日に美濃立政寺に移った。8月7日に近江佐和山に入った信長は7日間滞在し、使者を遣わして六角義賢に上洛への協力を求めるが交渉は決裂した。一方で8月17日には三好三人衆も近江を訪れ、義賢と「天下の儀談合」に及んだ。上洛には六角氏との対戦が不可避となった信長は、6万ともいわれる軍勢を率いて9月7日に岐阜を進発し、12日に箕作城、13日に六角氏の本城観音寺城と攻略して予想外の速さで江南を手中に収めた。 いっぽう大和からいったん退いていた三好方は態勢を立て直し、松永久秀を討伐するべく5月に大和侵攻を再開していた。三好康長は松永方重要拠点の信貴山城を包囲して6月29日に開城させ、9月4日には筒井順慶とともに東大寺に攻め寄せる。織田軍が近江に侵攻した後の9月10日に石成友通が坂本に進出したものの翌日には帰還している。また、松永方が織田軍に呼応するのを警戒し、16日に三好宗渭らが奈良の西京へ派遣される。このように松永方との対戦に注力していた三好勢は、兵力を結集して織田軍の進撃を阻止することができず、信長は義昭を奉じて9月26日に山城国に入った。 織田軍はそのまま三好勢の討伐に向かい、勝龍寺城に籠る石成友通を29日に逐い落とす。山崎に布陣していた三好勢は、27日に織田の先鋒が進撃してくる前に退散していた。摂津に入った先鋒は畿内における三好氏の拠点であった芥川山城の周辺を焼き討ちし、三好長逸が城を捨てて落ち延びた後、30日に義昭が入城した。池田城を攻囲された池田勝正は激しく抵抗したが力尽きて降伏、伊丹城の伊丹親興も降伏する一方、越水城の篠原長房、河内高屋城の三好康長、三好宗渭は戦わずに退去した。篠原・三人衆らはすみやかに撤兵したためその勢力は温存され、この後も義昭陣営との抗争が続くことになるが、足利義栄は将軍となりながら上洛を果たさぬまま、この間の9月30日に病死した(義栄の死去日ついては諸説あり、将軍職を解任されたのか死去によって将軍職が空席になったのかは不明である。三好長治に伴われて阿波に下り、10月8日あるいは20日に没したともいう)。 10月4日、摂津芥川山城の義昭のもとに三好義継・松永久秀・池田勝正・畠山氏らが出仕し、彼らと信長が義昭を奉じる体制が成立する。大和に残っていた松永久通は10月8日に筒井城を攻め落とし、筒井順慶を追い出した。さらに大和一国の支配を認められた松永久秀、義昭家臣の細川藤孝・和田惟政、信長家臣の佐久間信盛が率いる軍勢が10日に大和に入り、諸城を攻略していった。松永方は信貴山城も奪還した。
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