永禄12年の滝山合戦とは? わかりやすく解説

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永禄12年の滝山合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 13:56 UTC 版)

滝山城」の記事における「永禄12年の滝山合戦」の解説

詳細は「 廿里古戦場」を参照 詳細は「三増峠の戦い」を参照 永禄12年(1569年)、小田原攻撃に向かう武田信玄軍約2万人が滝山城北側拝島に陣を敷き別働隊小山田信茂隊1千が未整備間道(甲州街道前身)を通り小仏峠から進入、これに対し北条氏方は廿里で迎撃したが一蹴された(廿里古戦場)。後北条氏方は予測外の方向より攻められた為、滝山城三の丸まで攻め込まれ落城寸前にまで追い込まれたが、2千の寡兵凌いだ。しかしこの戦いは、滝山城防御体制が不十分であることを痛感させ、八王子城築城移転するきっかけとなったともいわれているが、真相は謎である。 なお、滝山城三の丸中の丸まで、落城寸前まで攻められたとは、江戸期書かれ甲斐武田氏軍記物語甲陽軍鑑】や【武田記】が書かれよるものである。 しかし、氏照本人永禄12年10月24日に、越後の上輝虎家臣山吉豊守および河田重親宛てた書状によれば滝山城城下町である宿三口戦いが行われたと書かれているが、実際不明である。(上杉家文書より) または、1577年(天正5年)2月5日武田家臣都留郡上野原(山梨県上野原市)の領主である加藤信景都留郡諏訪神社奉納され棟札記載によれば加藤信景の父丹後守景忠は武田信玄従い北条氏攻撃のため、氏照の居城滝山城下に放火し裸城とし、10月27日本郷(八王子市本郷町または元本郷町)に陣取った記載がある。(諏訪神社棟札銘写より)

※この「永禄12年の滝山合戦」の解説は、「滝山城」の解説の一部です。
「永禄12年の滝山合戦」を含む「滝山城」の記事については、「滝山城」の概要を参照ください。

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