永禄12年の上杉謙信の越中出兵
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「椎名康胤」の記事における「永禄12年の上杉謙信の越中出兵」の解説
詳細は「松倉城の戦い」を参照 永禄12年8月、椎名康胤の離反を受けて、上杉謙信は越中に出陣して松倉城を包囲したが、守りは固く、10月には包囲を解いて帰陣した。 その後、三木良頼の仲介で上杉氏と和睦し、大坂本願寺へ援軍を派遣したりしたが、 元亀3年(1572年)5月、武田信玄の西上作戦支援のため、加賀一向一揆が越中に侵攻したことに呼応し、再び反上杉氏の動きを示したため、加賀一向一揆勢を撃破した上杉氏軍に再び居城松倉城を攻囲され、元亀4年正月、謙信の養子である長尾顕景を通じて降伏開城した。その後の康胤の消息は不明であるが、一説には、天正4年(1576年)、一揆方として籠城していた砺波郡の蓮沼城を上杉氏軍に攻略され、自害したという。
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永禄12年の上杉謙信の越中出兵
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「富山城」の記事における「永禄12年の上杉謙信の越中出兵」の解説
永禄12年(1569年)、椎名康胤・越中一向一揆連合軍が上杉氏主力が撤退した後に富山城を奪われる。
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永禄12年の上杉謙信の越中出兵
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「越中の戦国時代」の記事における「永禄12年の上杉謙信の越中出兵」の解説
詳細は「松倉城の戦い」を参照 永禄12年(1569年)、本庄繁長の乱を鎮圧し、北条氏康と同盟(越相同盟)を結んで後顧の憂いを無くした謙信は、8月に越中出兵を行い、椎名康胤の立て籠もった松倉城 (越中国)を攻撃したが武田信玄の要請を受けて椎名康胤を支援していた越中一向一揆の抵抗に悩まされた上、武田信玄が小田原城包囲の為に上野国方面に出兵したため、越後に帰還することを余儀なくされた。このため、椎名康胤・越中一向一揆連合軍が勢いづいて、上杉氏主力が撤退した後に富山城を奪われる結果となる。
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