永禄4年の戦いとは? わかりやすく解説

永禄4年の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 08:24 UTC 版)

門司城の戦い」の記事における「永禄4年の戦い」の解説

周防灘 関門海峡 門司城 和布刈神社 甲宗八幡神社 楠原柳郷 大積伊川吉志片野小森江 大里 小倉 (黄色現在の埋立地であり、その内側が当時海岸線に近い) 豊前国 長門国 毛利氏 ↓至豊後国 大友氏 大友勢の田原親宏は、永禄4年1561年7月1日小倉進軍し門司城攻撃基地とした。一方毛利元就は、7月15日堀立直正門司下向させるとともに石見出陣取りやめることとした。15日4月から豊前出陣戸次鑑連田北鑑生田北紹鉄田原親賢大友軍6千はついに毛利勢の原田義種を籠る香春岳城落す、義種自刃8月大友義鎮は再び門司城攻略命じる。こうして吉岡長増臼杵鑑速二家老と田原親宏志賀親度朽網鑑康吉弘鎮信戸次鑑連田北鑑生六国衆は1万5千余の兵を率いて豊後大友館出陣し、再び門司城包囲した。この時、博多停泊していたポルトガル船が、大友義鎮要請受けて大砲門司城撃ち込んだと言われるが、勝敗寄与しない程度短期間参戦だったと思われる。これに対し8月21日毛利元就は、毛利隆元小早川隆景1万8千余の兵に後詰命じる。そして、隆元全軍指揮執るため長門府中長府)に滞在し、隆景に1万余の兵を割いて渡海させ、門司城向かった『陰徳太平記』によれば合戦参加した両軍武将次のとおりである。ただし、兵力などについては史書によって大きな違いがある。 大友方:戸次鑑連田原親賢臼杵鑑速斎藤鎮実吉弘鑑理吉岡内蔵太夫田北刑部少輔鎮周、鶴原掃部頭宗叱ら 1万5000毛利方:毛利隆元小早川隆景宍戸隆家三村家親楢崎弾正少弼佐波常陸介香川左衛門尉1万8000毛利方の史料によれば9月2日豊前蓑島での合戦一方大友軍は武田志摩守、本庄新兵衛今江土佐守先鋒門司城迫った9月12日花尾城合戦9月13日門司城には、雲霞如き大友軍が犇いており、隆景は、堀立直正の手勢や豊後守護代杉氏一族の軍8百を決死隊として関門海峡を渡らせ、大友軍の包囲網切り崩して門司城に入らせた。9月28日、隆景は児玉就方村上元吉らに命じ安芸河の内水数十艘で蓑島辺を襲撃させ、大友軍の背後撹乱させた。大友軍は、豊前沼の毛利軍支隊襲撃する大勢影響せず。10月2日大友軍が門司城周辺布陣し10月9日門司恒見三角三城の守将彦三郎の家臣稲田弾正重範、稲田右衛門重里葛原兵庫助則祐は義鎮の家臣田北民部鑑益の調略により内応仕掛けるが、内通者発覚10月10日調略逆に利用した隆景は、偽の内通狼煙により大友軍を誘い出すことに成功、隆景自ら渡海門司城入り全軍指揮し城外出て指揮をとり防戦努めた乃美宗勝児玉就方は、隆元の命を受け、大友軍の側背を衝いて明神尾の敵陣切り崩し、敵を大里まで追い込めて大友軍の大将一人田北鑑生重傷を負わせた。主戦場は、内裏大里)、小森江和布刈城西にかけてと見られ門司城下の甲宗八幡神社はこの時の戦火消失した。 この戦いでは、毛利勢が一時的な大勝利得た。『吉田物語』は、次のように記述している。 小早川隆景渡海して門司城本陣とする。十月十日大友勢の先陣門司城攻め懸ける警固衆浦兵部児玉内蔵丞、門司の浜へ押し上がり、敵の備え横合い攻め明神尾和布刈より敵勢切り崩し、里目に戦い、浦兵部は、衆人環視の中、敵勇将伊美鑑昌(伊美弾正左衛門統正)と一騎討ち演じた。はじめ宗勝は、鑑昌の鼻の辺り突かれ負傷したが、ひるまず、とうとう相手突き伏せた敵味方見守る一騎討ちで宗勝が勝つと、毛利軍士気俄かにあがり、敵を縦横切り立ててこの勝利を勝ち取ったのである。 — 『吉田物語10月12日大友鶴原掃部助宗叱が守る松山城毛利氏攻め、このときは鶴原宗叱が毛利勢を撃退している。 10月26日大友軍の再度門司城総攻撃和布刈神社の裏手から門司山麓迫った大友軍は、臼杵田原戸次斎藤吉弘という大陣容攻め臼杵鑑速田原親賢らの鉄砲隊数百戸次鑑連弓箭隊8百と連携して小早川勢に射ち込み大損害を与えたという。 しかし、城を落とすことは出来ず日没となり、大友軍は大里まで引き上げた大友方は門司城攻略諦め11月5日夜に包囲解いて撤退開始し毛利勢の吉見正頼吉見頼貞らの追撃受けて門司浜・沼の江・大里赤迫経て、貫(ぬき)山を越え彦山下を通って苦難の末、日田にたどり着いた。だが、田原親宏らの一部は、貫山から分かれて黒田原天生田国分寺原・蓑島通って国東向かったため、道待ちしていた毛利勢の因幡守隆哉・乃美宗勝能島村上武吉因島村上吉充来島数百人の伏撃受けられ竹田津則康、吉弘統清、一万田源介、宗像重正、大庭作介らの名ある武将討死多数犠牲者出して帰国した大友軍が退却したのは、大友軍の背後位置する豊前松山城馬ヶ岳城が、毛利軍により攻略されたためとの説がある。大友志賀鑑隆が守る香春岳城先に9月頃に攻略した思われる毛利氏は、この戦いにより、門司城だけにとどまらず筑前宗像氏麻生氏規矩郡の長野氏らにまで支配を及ぼすこととなった永禄5年1562年5月頃には、毛利方は香春岳城奪還にも成功したと見られる。 この敗戦契機大友義鎮出家して宗麟と号するようになった

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