永禄4年の戦い
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周防灘 関門海峡 門司城 和布刈神社 甲宗八幡神社 楠原郷 柳郷 大積郷 伊川郷 吉志郷 片野郷 小森江 大里 小倉 (黄色は現在の埋立地であり、その内側が当時の海岸線に近い) 豊前国 長門国 毛利氏 ↓至豊後国 大友氏 大友勢の田原親宏は、永禄4年(1561年)7月1日、小倉に進軍し、門司城攻撃の基地とした。一方の毛利元就は、7月15日、堀立直正を門司に下向させるとともに、石見出陣を取りやめることとした。15日、4月から豊前出陣の戸次鑑連・田北鑑生・田北紹鉄・田原親賢ら大友軍6千はついに毛利勢の原田義種を籠る香春岳城を落す、義種自刃。8月、大友義鎮は再び門司城の攻略を命じる。こうして吉岡長増・臼杵鑑速の二家老と田原親宏・志賀親度・朽網鑑康・吉弘鎮信・戸次鑑連・田北鑑生ら六国衆は1万5千余の兵を率いて豊後の大友館を出陣し、再び門司城を包囲した。この時、博多に停泊していたポルトガル船が、大友義鎮の要請を受けて大砲を門司城に撃ち込んだと言われるが、勝敗に寄与しない程度の短期間の参戦だったと思われる。これに対し、8月21日に毛利元就は、毛利隆元と小早川隆景ら1万8千余の兵に後詰を命じる。そして、隆元が全軍の指揮を執るため長門府中(長府)に滞在し、隆景に1万余の兵を割いて渡海させ、門司城に向かった。 『陰徳太平記』によれば、合戦に参加した両軍の武将は次のとおりである。ただし、兵力などについては史書によって大きな違いがある。 大友方:戸次鑑連、田原親賢、臼杵鑑速、斎藤鎮実、吉弘鑑理、吉岡内蔵太夫、田北刑部少輔鎮周、鶴原掃部頭宗叱ら 1万5000騎 毛利方:毛利隆元、小早川隆景、宍戸隆家、三村家親、楢崎弾正少弼、佐波常陸介、香川左衛門尉ら 1万8000騎 毛利方の史料によれば、9月2日に豊前蓑島での合戦、一方、大友軍は武田志摩守、本庄新兵衛、今江土佐守を先鋒に門司城に迫った。9月12日に花尾城合戦。 9月13日、門司城には、雲霞の如き大友軍が犇いており、隆景は、堀立直正の手勢や豊後守護代杉氏の一族の軍8百を決死隊として関門海峡を渡らせ、大友軍の包囲網を切り崩して門司城に入らせた。9月28日、隆景は児玉就方・村上元吉らに命じ、安芸河の内水軍数十艘で蓑島辺を襲撃させ、大友軍の背後を撹乱させた。大友軍は、豊前沼の毛利軍支隊を襲撃するが大勢に影響せず。10月2日に大友軍が門司城周辺に布陣し、10月9日に門司恒見・三角三城の守将杉彦三郎の家臣稲田弾正重範、稲田藤右衛門重里と葛原兵庫助則祐は義鎮の家臣・田北民部鑑益の調略により内応を仕掛けるが、内通者は発覚。10月10日、調略を逆に利用した隆景は、偽の内通の狼煙により大友軍を誘い出すことに成功、隆景自ら渡海し門司城に入り全軍を指揮し、城外に出て指揮をとり防戦に努めた。乃美宗勝と児玉就方は、隆元の命を受け、大友軍の側背を衝いて明神尾の敵陣を切り崩し、敵を大里まで追い込めて、大友軍の大将の一人田北鑑生に重傷を負わせた。主戦場は、内裏(大里)、小森江、和布刈の城西にかけてと見られ、門司城下の甲宗八幡神社はこの時の戦火で消失した。 この戦いでは、毛利勢が一時的な大勝利を得た。『吉田物語』は、次のように記述している。 小早川隆景渡海して門司城を本陣とする。十月十日大友勢の先陣門司城へ攻め懸ける。警固衆浦兵部・児玉内蔵丞、門司の浜へ押し上がり、敵の備えの横合いを攻め、明神の尾和布刈より敵勢を切り崩し、里目に戦い、浦兵部は、衆人環視の中、敵勇将伊美鑑昌(伊美弾正左衛門統正)と一騎討ちを演じた。はじめ宗勝は、鑑昌の槍で鼻の辺りを突かれ負傷したが、ひるまず、とうとう槍で相手を突き伏せた。 敵味方が見守る一騎討ちで宗勝が勝つと、毛利軍の士気は俄かにあがり、敵を縦横に切り立ててこの勝利を勝ち取ったのである。 — 『吉田物語』 10月12日に大友方鶴原掃部助宗叱が守る松山城を毛利氏が攻め、このときは鶴原宗叱が毛利勢を撃退している。 10月26日、大友軍の再度の門司城総攻撃。和布刈神社の裏手から門司山麓に迫った大友軍は、臼杵、田原、戸次、斎藤、吉弘という大陣容で攻め、臼杵鑑速や田原親賢らの鉄砲隊数百と戸次鑑連の弓箭隊8百と連携して小早川勢に射ち込み大損害を与えたという。 しかし、城を落とすことは出来ず日没となり、大友軍は大里まで引き上げた。 大友方は門司城の攻略を諦め、11月5日夜に包囲を解いて撤退を開始し、毛利勢の吉見正頼や吉見頼貞らの追撃を受けても門司浜・沼の江・大里・赤迫を経て、貫(ぬき)山を越え、彦山下を通って、苦難の末、日田にたどり着いた。だが、田原親宏らの一部は、貫山から分かれて、黒田原・天生田・国分寺原・蓑島を通って国東へ向かったため、道待ちしていた毛利勢の杉因幡守隆哉・乃美宗勝・能島村上武吉・因島村上吉充・来島勢数百人の伏撃を受けられ、竹田津則康、吉弘統清、一万田源介、宗像重正、大庭作介らの名ある武将が討死し多数の犠牲者を出して帰国した。 大友軍が退却したのは、大友軍の背後に位置する豊前松山城や馬ヶ岳城が、毛利軍により攻略されたためとの説がある。大友方志賀鑑隆が守る香春岳城も先に9月頃に攻略したと思われる。 毛利氏は、この戦いにより、門司城だけにとどまらず、筑前の宗像氏・麻生氏、規矩郡の長野氏らにまで支配を及ぼすこととなった。永禄5年(1562年)5月頃には、毛利方は香春岳城の奪還にも成功したと見られる。 この敗戦を契機に大友義鎮は出家して宗麟と号するようになった。
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