永眠後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/16 19:50 UTC 版)
「サワ (セルビア大主教)」の記事における「永眠後」の解説
永眠後、列聖されて、正教会で聖人とされる。また、父も列聖されている。 当初ブルガリア皇帝はサワの遺体を同地にとどめるよう主張したが、サワの甥であるセルビア王ヴラディスラヴは懸命にセルビアに遺体を移すよう要請し続け、1237年5月6日に、セルビアにサワの不朽体は移された。 その後、多くのセルビア人正教徒の崇敬・敬愛を集め、オスマン・トルコ支配下にあるセルビアの自由と解放を願って神への祈りを依願され続けた聖サワであったが、オスマン帝国は1594年に聖サワの不朽体を安置されていた修道院から引き出し、ベオグラードに運んでそこで燃やした。この場面は多くの歴史画に題材として取り上げられている。 不朽体を焼却処分すればサワへの崇敬は止むとオスマン政府は考えたが、崇敬は止むことはなかった。サワはセルビアの正教徒だけでなく、ラテン系・ギリシア系のカトリック教徒からも尊敬を受けている。 今日でも多くの学校などでサワが記憶されており、セルビア人の中でサワの名前は教育と啓蒙の代名詞となっている。世界の正教会でも最大級の規模をほこる聖サワ大聖堂は、サワを記憶して、不朽体が焼却された場所に建てられている。
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