武田氏の駿河侵攻と甲相同盟の破綻
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「甲相同盟」の記事における「武田氏の駿河侵攻と甲相同盟の破綻」の解説
永禄11年(1568年)、武田氏と後北条氏の甲相同盟が駿河侵攻により破綻した。 信濃の大半を領国化し信玄は、損耗の激しかったとされる永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いや、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでの義元の討死、永禄10年(1567年)に義元の娘を正室としていた嫡男武田義信を廃嫡した義信事件などを契機に従来の北進策から今川領国への侵攻を志向する南進策へと戦略方針を転化させる。永禄11年(1568年)には武田氏・今川氏は手切となり甲駿同盟は破綻し、信玄による駿河侵攻が実行された。今川領国の分割を持ちかけられた氏康は駿相同盟を堅持して、婿にあたる義元の子今川氏真を支援し、信玄と対立関係にあった謙信と越相同盟を結んで武田領国を包囲牽制し、甲相同盟と三国同盟も完全に破綻した。 甲相同盟の破綻により甲相領国が接する駿河や北武蔵・西上野においても緊張が高まり、信玄の駿河侵攻も苦境を強いられた。打開策として信玄は常陸国の佐竹義重や三河の徳川家康らと関係強化を志向して北条領国への出兵を促し、室町幕府第15代将軍・足利義昭を奉じる尾張の織田信長には謙信との調停を依頼した。
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