南進策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 13:51 UTC 版)
13世紀以前、陳朝や李朝など大越とチャンパ王国の間では軍事衝突が続いていた。元の侵入の際に大越とチャンパ王国は共通の敵に対して協力関係を築き、戦後も上皇となった仁宗がチャンパを訪問していた。仁宗の働きかけによって、1306年に仁宗の娘の玄珍公主(中国語版)(フイエン・チャン・コン・チュア)とチャンパ王ジャヤ・シンハヴァルマン3世の結婚が成立する。国内の文人官僚たちは漢の王昭君の故事を持ち出して婚姻に反対すると、仁宗と皇帝・英宗は反対派を鎮めるためにチャンパに烏(ベトナム語版)里(ベトナム語版)二州(現在のクアンビン省南部からトゥアティエン=フエ省にかけての地域)を割譲させ、それぞれ順州(中国語版)・化州(中国語版)として行政区画に編入した。ジャヤ・シンハヴァルマン3世の没後に大越とチャンパの関係は悪化し、玄珍公主は大越に戻った。1312年に英宗はチャンパに親征し、チャンパ王ジャヤ・シンハヴァルマン4世を捕らえ、その弟であるジャヤ・シンハヴァルマン5世を王に擁立した。14世紀半ばまで大越はチャンパに対して優位に立つが、その衰退に伴って両国の力関係は逆転する。
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