南進政策への誘導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 03:39 UTC 版)
「南進論」および「ゾルゲ諜報団#日本が対ソ開戦するか否か」も参照 尾崎はゾルゲに日本政府の南北併進論と独ソに対する中立の決定などの情報(国家機密)を流していたが、尾崎が政治活動において第1次近衛内閣の総理大臣秘書官牛場友彦の推薦で内閣嘱託となり「朝食会」に参加し、昭和研究会などに参加したことから、日本政府の動向について情報を得て、尾崎の助言・提言という形でその政策について影響を与えることができる立場にあった。さらに尾崎の知人で外務省嘱託だった西園寺公一が海軍軍令部の藤井茂と親交があったことから、近衛文麿の側近として軍の首脳部とも緊密な関係を保ち軍部の内情を得ることが可能だった。 また、尾崎が参加した昭和研究会は国策の理念的裏づけを行い、大政翼賛会結成を推進して日本の政治形態を一国一党の軍部・官僚による独裁組織に誘導しているが、昭和研究会のメンバーが同会から発展する形で独自に結成した「昭和塾」のメンバーは尾崎ら共産主義者と企画院グループの「革新官僚」によって構成され、理念的裏づけはことごとくマルクス主義を基にしていた。 さらに、ゾルゲの手記によれば、ゾルゲ諜報団は独ソ開戦で日本の対ソ参戦の可能性が高まった1941年には尾崎の提言により対外政策を南進論(南部仏印進駐)に転じさせる働きかけを積極的におこなったと述べている(敗戦革命論)。結果、日本は無謀な太平洋戦争を開戦しアメリカと戦い自滅した(「第7回コミンテルン世界大会と人民戦線」)。
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